君がくれた未来、思い出にさよなら


 その日、ひとつの時代が終わった。

 ホームを出てゆく白地にブルーラインの車体。見送る人々から零れる涙とさよならの声、鳴り響く警笛、鳴り止まぬ拍手。
 ああこれほどまでに愛されていたのだ、と感慨深くそれを見守る山陽の胸に去来したのは、ひとつの時代が終わりを告げたのだという現実だった。
 人々の夢を背負い、また夢や希望、未来そのものとして走り続けた0系新幹線。
 その技術は長年の間に彼に続くすべての車両たちへと受け継がれ、その車両たちがまた新たな夢を乗せてレールを走る。その傍らにあった東海道と山陽にとって、この車両には言葉では言い尽くせないほどの想いがある。
 営業運転は既に先月のうちに終了していた。これは彼を送るための式典にも似た運行だったから、誰も彼もがさよならを告げる為に彼に乗り、彼を見送る。新幹線という名称そのものと同一だった彼の最後の姿が見えなくなるまで、ホームから動こうとしない人々のなんと多いことか。
『なあ、東海道。こんなに愛されてたんだな、俺達は』
 無我夢中で走り抜けた日々、それは彼と共にあった。0系の名を冠する車両、それとイコールで結ばれていた東海道。
 時代の流れの中で己の架線を走らせる事はこれ以上は無理だと断じた冷えた横顔、そこに分かりにくい寂寥と自ら半身を切り離すかのような苦悩が滲んでいた事を知っている。己と共にあったもの、長い間彼の名前と共にあったものの最後を自ら決める為に、自身の路線からの引退を決定した東海道に、己がそれを走らせると言いだしたのは何が理由だったか。
 東海道ほどでなくとも、そこに確かにあったノスタルジーか。
 或いは、古い車両であったとしてもダイヤを充実させるに足ると踏んだ営業上の判断か。
 否、ひょっとしたら。
 単に彼と共にあったものと己が共に走ること。それに意味を見出したいと願った浅ましい欲だったかも知れない。

 けれど、それも今日で最後だ。

 これまでの慌ただしさがどっと疲れとなって背に圧し掛かるかのような錯覚に、思わず肩を押さえる。職員の皆もこれまで山陽がどれだけこの車両の引退に向けて忙しく走り回っていたのかを知るからだろう、今日はもう帰って休んでくれと言われている。
 それをしないのは、単純に名残惜しいからだ。ここで己の部屋に戻ってしまったら、この別れはもう覆せない事を知るが故に。
 東海道と、そして自分と共にあったもの。そこに眠る思い出の数々をひたすら過去に押し流す作業のようにはしたくなかった。

 ふらり、と足が向くのは車庫。
 最後の運転を終えた0系が停車しているだろうその場所に、山陽は引き寄せられるように近づいてゆく。
 こんな日だから警備はもちろん厳重だけれど、山陽の姿を認めた警備員は、何かを納得したようにそっと会釈をひとつしただけで声をかける事はなかった。
 それを有り難いと思いながら(何せ声をかけられてもなんと返事したらいいのかわからない。それに下手に喋るとようやくのことで平静を保っている何かが瓦解しそうな感覚もあった)、山陽は夜の闇の中に沈む白い車体をゆっくりと見渡す。
 真っ白な車体に、鮮やかなブルーライン。長いこと新幹線の代名詞として親しまれたその姿をなぞるように、東海道は己の車両の全てをこの0系に準じた色以外認めようとしない。
 それを覆してしまったら東海道が東海道として彼と走ってきたものまで崩れてしまうのだとでも言いたげに、時代遅れと揶揄されようとも東西を結ぶ路線を走るのは白い車体の車両たち。想いは受け継がれるのだと、その走る姿が物語っている。

「……よぉ、やっぱ来てたな」

 視界の端、正面から運転席を見上げるように0系に相対する人影があった。
 己と同じ濃緑の高速鉄道の制服に身を包み、細い背を真っ直ぐに伸ばし強い眼差しを正面に向けて。いっそ鋼の如くありたいと願うようなその姿は、山陽の無二の相棒のものだった。
 無言のまま、0系を見つめていた視線が山陽へと向かう。夜の闇に溶けるような漆黒の眼差しと浮かび上がるような白い頬、どこか張りつめた表情は、彼が泣きだす一歩手前だと知ったのは随分と前のことのように思える。
 不思議と居心地は悪くない沈黙の中、山陽は東海道の傍らに腰を下ろす。コンクリートの冷たい感触がスラックスから素肌に伝わってきたけれど、それ以上に今この時間を東海道と共有できるという事実に心が躍っていた。
「来ると思ってたよ。でもどうせなら走ってるとこ見てやればよかったじゃん」
「……俺はもうこいつを手放した。別れはとっくに告げている」
 その冷たくさえ聞こえる言葉通りに、西日本での営業運転の最後の日、結局東海道は新大阪以西には顔を出そうとはしなかった。
 彼にとってのこの車両との別れは己の路線を引退したあの日だと、頑としてそれ以上の別れをよしとしなかったけれど。山陽はあの日の深夜にも、こうして0系を見上げていた東海道を知っている。
 東海道の歴史と共にあった車両。夢の超特急の名を以て、高度成長と共に時代を見つめてきた車両。
 その思い入れはきっと山陽のそれよりもずっと深いだろうに、こんな場所でしか別れが告げられない不器用さは東海道らしくて、山陽はそっと未だ立ち尽くしたままの東海道の腕を引いた。
「な、なんだ?」
「いーから。ちょっとおまえさんも座れよ」
 白い手袋に包まれたままの東海道の手を引いて、己の傍らに腰を下ろすように促す。ぱちぱちと意図が分からない山陽の誘いに戸惑っているようだったが、結局いくらかの逡巡の後に東海道はすとんとその場に腰を下ろした。
「いったいなんなんだおまえは……いや、おまえの車両基地に勝手に入ったのは悪いと思っているぞ、うん」
 どうにも落ち着かないのか、文句を言いたいのか言い訳を紡ぎたいのかよく分からない言葉を明後日の方を見ながら喋り出す東海道の肩を聊か強引に引き寄せる。うひゃあ、と色気のない小さな悲鳴を上げたその頭を己の胸の中に抱き込んで、耳元で囁くように小さく告げる。
「……もういいって、東海道」

 別れの言葉ひとつ告げないのは、告げることで本当になってしまう事が怖いから。
 思い出を語ることさえ出来ないのは、思い出という過去にしてしまいたくないから。
 それでもその姿を見たいと願うのは、もうこの車両と共に走る事が二度とない事を知っているから。
 ――だから、東海道は此処でただ見つめることしか出来ない。
 他の何も許されてはいないのだと、そう己が定めてしまったから。

 けれど、それではあまりに哀しい。

「おまえとずっと一緒に走ってきたヤツだもんな、特別に思う事も惜しむ事も、悪いことじゃねーはずだよ」
「山陽、」
「さよならって、言わなかったらずっと後悔するぜ?なんせ俺たちはまだまだ走り続けなきゃならねーし、これからどんどんこんな機会は増えるんだろうからな」
 最初の車両が表舞台から姿を消す。最初がそうなら次がある、そしてまたその次も。
 生まれて出会う数だけ別れはある。それはもう覆せないことだから、あとはせめてどれだけ悔いを残さずに別れられるかどうかだろう。そして、東海道という男は合理主義者に見えて情に厚く己の庇護下にあるものに甘いから、そういったことがまた壊滅的に巧くない。
「なあ、ちゃんと言ってやれよ?おまえさんとずっと走ってきた過去は、そう簡単に消えてなくなるもんでもないと思うぜ?」
 抱き込んだままの東海道の肩が、びくりと震える。
 不器用にもほどがある、と苦笑を浮かべた山陽を詰るように、東海道の指先が制服の裾を握りしめた。その指先さえ細かく震えを刻むのは、不規則になってゆく呼吸からも明らかで。
 必死で抑え込もうとしている感情の発露を促すように、そっとその細い背を撫でた山陽の掌の向こうで、制服の生地越しに伝わる体温は暖かい。冷たい鋼だったなら、きっと自分たちはもっと楽で、もっとつまらない存在だったろう。
 でも、今ここで心を持って在る事には、確かな意味があるはずだから。

 囁くようなか細い声で、けれどもそれが伝わらない事は無いと確信できるほどの想いを込めて。
 東海道が告げた簡潔な別れの言葉を、山陽は噛み締めるように心に刻む。

 明日からは思い出になるだろう君に、さよならを。それ以上にありがとうを贈ろう。
 共に走り続けた君がくれた未来は、君の名を技術を意志を継ぐだろうものたちが紡いでいく。
 それはきっと自分たちにも当てはまるのだと理解するからこそ、こらえ切れずに泣きじゃくる東海道の背をそっと抱いて、山陽は静かに瞼を閉じた。



2008.12.15.(2009.01.29.)

MEMOログより再録。

ありがとう、そしてさよなら。
新幹線というもののひとつの歴史の節目に立ち会えたことへの感謝と共に。