猟奇的な彼女


9.

 ばたん!、と目の前で勢いよく閉じられたドアに、山陽は呆けてそれを見送ることしか出来なかった。
 きっかけは何だったか、と問われれば、そう明確な原因があったわけではないと思う。異様にやる気になっている秋田の魔の手から激ニブの相棒を守らねば、と売り言葉に書い言葉でいろいろ口走ったような気がするが、一体何がマズかったのだろうか。
 それまで状況が把握できない困惑に視線を彷徨わせていた東海道が、突然音を立てそうなほどの勢いで頬を真っ赤に染めて、山陽と視線を合わせないままに駆け去っていってしまった。呼び止める自分と秋田の声にも耳を貸さず、ただ見慣れない女物の黒いジャケットの裾をひらりと視界の残像に残し、東海道はその名に相応しい速度で高速鉄道の執務室から姿を消して、残されたのは呆然とするしかない自分たち。
 一瞬で己の背から消えてしまった慣れないようで良く馴染んだ気配と、性別が変わろうとも相変わらず綺麗な背中を呆然と見送るしか出来なかった山陽と異なり、東日本の面々は一瞬で顔色を変える。
「……って、あの状態の東海道が出てったらマズくない!?」
「っ!待て、東海道!!」
 滅多にない焦った表情の東北のよく通る声が彼だった彼女の名を呼ぶが、時すでに遅し。今でこそ日本最速の名を山陽や東北に譲ったものの、安全性と定時運行の天秤にかけたその足の確かさが損なわれたわけではないことを、この場に居る面々は良く知っている。
 それは身体的に変質してしまった現在でも変わる事は無いのだと思い知らせるかのように、風のように走り去った東海道の姿はドアを開けた先の何処にも見つける事は出来なかった。
「拙いな……できれば東海道の身の安全が保障されるまでは、この事態は伏せておきたいところなんだが」
 滅多にない長文の台詞を溜息混じりに吐き出しながら、東北はぱたり、と開け放ったドアを閉め直した。この会話が漏れることを危惧しての処置なのだと一拍遅れて気づいた秋田は、その細い眉をきゅっと顰め、心底からの心配を滲ませてゆるゆると深く長い吐息を零した。
「どうしよう、そうなると探すにしても大々的に、ってわけにもいかないよね。とりあえずこの場の面々で東海道が居そうなところを探すしか……」
 語尾が如何せん力ないのは、多忙な高速鉄道の面子がそうそう割ける時間が無いことを己が良く知る故のことだったのだろう。今にも東北に全てを押しつけて駆け出していきたいのを堪えている、という本心は常ならぬ落ち着きの無さから明白で、彼を牽制する意味もあったのだろう、ドアの前に陣取ったまま動かない東北は重苦しく溜息をもうひとつ。
 秋田が何処まで本気なのかはわからないが、東北的にはできればこの一件にあまり深入りはしたくない。ある意味現状を受け入れかねて逃亡した上越を羨みたくなるほど、果てしなく疲れる結末しか用意されていないような気がするからだ。
 さてどうすべきか、と本来高速鉄道の纏め役である東海道が姿を消し、東北がそうは見えなくとも頼りにする相棒・上越は逃亡、面倒見の良い秋田は今回に限っては全く当てにならず、山形はと振り返ればどよんとした空気を背負って俯いたジュニアを言葉少なに慰めているようだ。これぞまさに八方塞がり、という現実を前に、溜息を落とす以外に何ができるというのだ。
 いっそさっさと東海道が医者にかかっていてくれれば面倒な事にはならなかったのに、と真面目そうに見えてかなりの面倒くさがりであるところの東北は、仕方ない、と覚悟を決めてドアノブへと手をかけた。
「……ちょい待ち、東北。俺が行くって」
「山陽?」
 ドアノブにかけた手を押し止めるように掴まれた手のひらの主を探るように視線をわずかばかり上げれば、先ほどまでとは異なる真摯な表情をした山陽のそれと真っ向からぶつかる形となった。
 明るい色合いに染めた髪と常に笑っている印象がある所為で忘れがちだが、この男が見た目通りの優男ではないことは、東北だって理解している。普段が東海道の傍ら、一歩下がったところに居る印象があるのが原因なのだろうが、民営化が決定した時に東北と上越に投げつけられた冷えた刃のような視線を覚えている身としては、そう簡単に舐めてかかるわけにはいかない。

 国鉄、という組織が解体されると決まった日。
 おまえたちは東海道の敵か、と問いかけたあの冷えた鋼のような声。あれが山陽の本質だとは言わないが、一面である事は確かなのだろう。
 息を飲む上越の視線を己の背で遮り、部下ではなくなるが敵ではない、と告げた瞬間の値踏みするような山陽の瞳。染めた髪と異なり生来の茶水晶の眼は、言葉の中の真実を探るように東北の爪先から頭の先までを眺め、瞬きひとつで元の人懐っこい笑みを浮かべた同僚へと戻る。
 それならいいんだ、と肩を叩いたその横顔を、今でも東北は覚えている。
 おそらくは東海道には見せたこともないだろうその表情。彼にとって大事なものが何で、その為に犠牲にしても構わないだろう中には、きっと山陽自身も含まれている。

 そして今、あの時と同じ視線を東北に向けてくる山陽を目の前に、東北は静かにドアノブから手を外した。これはこれで面倒な、と再び深い溜息を落とし、僅かに肩を竦めて己の身体を半歩右へとずらした。
「……おまえが行ってくれるのならばそれに越した事は無いが」
 山陽の本心を探るように見つめる東北に準じるように、その部屋の全ての人間の視線が山陽へと集まる。けれどそれを吐息ひとつで受け流すと、至極当然の事を告げる軽さで東北が退いたドアへと歩み寄り、静かにノブに手をかけた。
「そりゃね、俺ととーかいどーちゃんは一心同体だもの」
 アイツが前を見て走っている事が俺の存在意義なのは、今も昔も変わらないと。そう告げた山陽はドアを開け放ち、東海道がそうしたのと同様にふわりと部屋の外へと躍り出る。
 大柄な体格からは想像出来ないくらいに軽やかな足取りで駆け去る様は、彼が自慢していた銀色の車両の走る姿に良く似ている。あっという間に見えなくなった背中に、東北はぱたりとドアを閉じる。
 あとはお互いにどうにかするだろう、と諦め混じりに部屋の中に視線を戻せば、異様に恨みがましい秋田のそれとがちりと噛み合ってしまう。しまった、コイツを忘れていた、と無表情な中にも僅かな焦りを滲ませた東北は、居るかどうかもわからない神様とやらの悪意を感じて、そっと天井を仰いだのだった。


◆ ◆ ◆



 入り組んだ東京駅の通路を右へ折れ階段を駆け下り、時には既に使用されていない区画をすり抜けて。
 駆け去ってしまった己の片割れ、東海道を追って山陽が足を向けたのは、そういった人気の無い関係者以外立ち入り禁止エリアの更に奥、今となっては増改築や耐震工事の奥に埋没してしまったような忘れ去られたような区画だ。
 だが、他の誰が忘れたとしても、東海道なら忘れない。彼が東海道新幹線の名を背負ってから現在までの国鉄とJRの名を冠する全ては、あの間違った方向に出来の良いおつむの中に詰まっている。どんな些細な工事の記録も図面も、明らかに自分の担当でないものすら抱え込んで年中過労気味なのは今も昔も全く変わらない。
 だからこそ、あの状態の東海道なら人気のない場所を無意識でも選ぶだろう、と長年の付き合いにおける経験と勘によって迷いなく追ってきたのだけれど、こんなことばかり理解できても、実際は役に立たないことの方が多い。
 失いたくないのは彼の隣で、笑っていて欲しいのも本当で、けれど結局は怒らせたり呆れられたりすることの方が多い。東海道の我儘も山陽の誤魔化しの笑顔も、もうこの長い間に日常になってしまって久しく、今さらそれを変えるかも知れないファクターの存在は怖れを伴う。

 追いかける、その役割を誰にも譲りたくなかったのは本当。
 けれど追ったところで何を言うべきなのか、むしろその資格があるのかと問われれば返答に窮するのも事実だった。山陽の中には相変わらず衝動めいた何かしか存在せず、それを実現するには少々彼と過ごした三十数年は長過ぎる。
「……臆病なのはわかってんだよ」
 触れる指先にすら怯え、その熱が離れる事に恐怖を覚える。足元から瓦解してゆくような感覚は世界の崩壊にも似たその絶望を味わわずに済むのなら、マリモになった東海道の面倒を山形が見てくれるのはむしろ有難かった。そのたびに胸の何処かが痛むのを無視さえすれば、山陽はまだ東海道の傍らで走れたから。

 けれど、そんな欺瞞ももうおしまいにしなくてはいけないのかも知れない。

 ふと口走った台詞は今思えば何処までも本心だ。面倒くさい男だと思うのと同じくらい、その融通の利かない様子すら可愛いと思っていた己は確かに存在していた。
 触れる意味を求める必要すらないくらいに、衝動は身体を埋め尽くし足を急かせる。ブルーシートの合間を潜り抜けるように過ぎた区画は現在工事中で、その合間にぽっかりと残った時代の遺物のような古いタイル敷きの床面に靴底が固い音を響かせた。

 そして、視線の先には入り組んだ通路の端に、人影がひとつ。

「ようやく、見つけた……っ!」

 細い肩を戒めるように掻き抱いて、覚えているより細い首筋に顔を埋める。ぴくん、と肩が跳ねたような気がしたが、此処で手を離してしまえばもう捕まえられないだろうことを本能的に悟り、山陽は更に腕の中の東海道を抱く力を強める。
 ぽう、と白い首筋から頬にかけてがばら色に染まる様を綺麗だと思いながら、山陽はたったひとりの彼だった、今は彼女である存在の名前を呟く。
 その音が幸福に満ちているような錯覚は山陽の中だけでは真実なのだと薄く笑って、顔を埋めた首筋から香る僅かなせっけんの香りに相好を崩した。



2009.09.02.

山陽サイドというか東北サイドというか。
東北は結局面倒臭いの嫌いな人だと思うんですよね!常に誰かに面倒な事は投げたらいいと思ってそう。
この場合上越がきっと最終的に東北が投げたの拾ってるんだ、もっと悪ぶりたいのに不憫な子!