猟奇的な彼女


8.

 顔中が熱い。頭がぐるぐるする。
 何を言われたのか明確に思い出す事すら本能が拒否するような混乱の中、東海道の名を持つ高速鉄道は、湧き上がる衝動に任せて爪先に力を込める。
 居心地の悪い空気から、一刻も早く逃げなくてはならない強迫観念。それが本当に居心地が悪い、という一言で片付く種類の感情だったのかどうかすら確かめる余裕を持てず、東海道は履き慣れた革靴とはまた違った感覚を伝える女性物のローファーにも関わらず、己の全速力でその場を逃げ出した。
「え、ちょ、東海道!?」
「何処行くのさ、東海道!!」
 後ろから慌てたような山陽と秋田の声が聞こえたが、知ったことか。今東海道が出来ることはただひとつ、火照った頬の熱が引くまで、誰も居ない場所へと逃げ出すことだけだ。
 ばたん!と勢いよくドアを開けて、人気の少ない廊下へと躍り出る。リノリウムの床は真新しい靴底とぶつかるたびにかつかつと硬質な音を響かせ、そのスタッカートのような音に後押しされるように速度を上げる。
 皆が困惑の視線を向けるほど、東海道にとって己が変質してしまった、という自覚は薄い。だってこうして普通に走れるし思考が混濁しているわけでもない。車両と運行の情報も変わらず脳内にあるし、実際に東海道新幹線の運行に支障は出していない。
 ならば、東海道が思い悩むような事が何処にあろうか。この身が多少縮んで記号的な性別が変わったところで、東海道が東海道として成すべきことが何も変わるわけがない。
 或いは己が人間だったなら、これはとてつもなく重要な条項だったのかも知れないが、この身は鉄道。人の形をした人ならざるものだ。人の願いが形を取り、人の望むままに在るべきものを在るように動かす為のヒトガタだ。
 ただそれだけのものでしかないのに、少しばかり形が異なったからといって取り乱す方がおかしい。だからこそ東海道は東海道として振舞い続けたのに、周囲は最も近しいであろう弟や山陽ですらそう取ってはくれなかった。
 だが、それに不満を零すような資格は、今こうして逃げている東海道には許されないかも知れない。

 たった一言。

 他の誰に言われても、何の波風も立てなかったと断言できる。けれど彼の口から、その場の勢いもあったのだろうけれど零れたその一言で心臓は煩いほどにがなりたて、体温は無駄に上昇し、手のひらはじわりと汗ばんでいる。
 飽和した思考のままに在ることが恐ろしくて、その場の勢いで高速鉄道執務室を飛び出してがむしゃらに廊下を走りぬける。
 かつてよりも軽い気がする身体とは裏腹に、呼吸が上がるのが少し早い。自分なのに自分で無いようなこの変質の意味にようやく気付かされたような気分になりながら、東海道は喉の奥に固まっていた何かを吐息と共に履き出して、人気のない廊下の隅にぺたりと座り込む。
 東京駅は首都の名を冠するターミナルに相応しく、その入り組みようも大変なものだ。時代の移り変わりと共に増改築が行われてきた敷地は業務エリアであるほど入り組んでいて、無茶苦茶に走ってきた此処も、拡張工事の隙間で立ちいる人間も殆ど無い、こんな場所がある事すらあまり知られていない区画の、その更に奥まった通路の端。
 誰も居ないことを確かめるようにふるりと辺りを見回して、ぎゅっと閉じた瞼の奥がちかちかと明滅する。
「なんだというんだ……こんなことくらいで」
 あれの口が軽いのは今さらだったはずだ。何が可笑しいのか知らないが、此方が本気で思い悩んでいる時もけらけらと笑っているような笑い上戸。もちろん常の軽口も適当なんてものではなくて、昔はコイツと折り合いをつけることなど無理だとさえ思い悩んだことだってあった。
 今はどうにか互いの立ち位置も理解できてきて、こと仕事に関してはあの男以上に信頼できる人間などいない、と言い切れるくらいには特別だった自覚はある。
 けれども、あんな軽口くらいでこれほど動揺する理由が分からない。やけに親身になってくれた秋田の態度もよくわからなかったが、山陽のそれは更に理解不能だ。これが普通の女性ならば理解出来ないこともないのだが、残念ながら東海道は東海道以外の何者にもなり得ない。
 呼吸は落ち着きかけているのに、ばくばくと落ち着かない鼓動を宥めるように胸を押さえ、東海道は普段にはあり得ない感触に眉を顰めた。
 見下ろした胸元は、普段の制服では無い黒のスーツと白いブラウス。全体のデザインこそ男物のスーツと変わらないように見えたけれど、実際に着てみればそのシルエットが体格に沿うように仕立てられているのがわかる。動きを妨げるほどではないけれど、それでも着慣れた制服との差異に、ふとした瞬間に無意識がひどく違和感を訴える。
 触れた胸も些細ではあるとはいえ、男だった時にはあり得ない柔らかさを指先に伝える。東海道が知る一般的な女性のそれには少しばかり、否、ずいぶんと足りていないように思えたのだが、確かにこの身は女性のそれへと変わっていたということだろう。
 大したことじゃない、という認識は今も変わらない。東海道のとっての唯一は『走ること』、それさえ可能なら他の事などどうという事は無い。今までもそうして切り捨ててきたし、これからもその認識は変わらない。
 けれど、どうして今触れる身体の変質が厭わしくてならないのだろうか。あんな軽口ひとつに動揺する己が存在する事が、耐えがたく感じてしまうのだろうか。
 それは裏返せば今まで頑なに見ないふりを続けてきた真実に辿り着いてしまいそうで、東海道は何かに急き立てられるように立ち上がる。新しい靴で走ったからだろうか、踵に僅かに走った痛みすら己の衝動を留めるに至らず、此処ではない何処かへ、とただひたすらにその単語を脳裏に描いて、駆け出そうとしたその瞬間。

「ようやく、見つけた……っ!」

 するり、と肩口から回り込んで己を抱き止める長い腕。馴染んだ体温と気配、僅かなシトラス系の香料を含んだ空気が鼻腔を擽るにあたって、呼吸が止まるような驚愕を覚えた。
 ひくり、と喉元が硬直したようにわなないて、疑問を告げる言葉は欠片にもならずに喉の奥に消え失せる。引き剥がすことさえ思いつかないままに、力強く抱き寄せるその腕にただ従順に従う以外、東海道に出来る事は無かった。
 これまでなど前哨戦に過ぎなかったのだと告げるように、心臓がより一層早い速度で鼓動を刻む。こめかみがずきずきと痛んで、それはまるで警報のようだと己の中の何処かが笑う。

 荒い吐息が首筋にかかる、そんな些細な刺激でさえ立っているのも困難になるような。そんなわけのわからない感覚に途方に暮れながら、それでも抱き寄せる腕を拒むことはせず、東海道はただこの鼓動と熱が相手に悟られなければいい、と些細な、けれど叶える事はとても困難だろう事を、台風が来るたび逸れることを願うかのように真摯に祈ることしか出来なかった。



2009.08.28.

長くなり過ぎたのでとりあえずここで切ります。
お兄ちゃん改めお姉ちゃんのターン!(笑)
次は山陽サイドです、土曜日までにはアップできたらいいなー。