猟奇的な彼女


7.

 東京駅から少し離れた上野駅、此処は東日本の高速鉄道の拠点のひとつだ。そして同時に多くの路線へと接続するターミナル駅でもあり、故に此処に縁のある路線は多い。
 高崎の名を持つ在来線もその例外ではなく、東京駅乗り入れが計画されているとはいえ今は自身の起点でもある駅の構内は勝手知ったる部類に入るだろう。
 だがしかし慣れ親しんだはずの駅構内、その関係者以外立ち入り禁止の業務エリアにおいて、普段決して目にする事が無いだろう光景を目の前にして立ち尽くす以外に何ができようか。
 少しばかり空いた時間、ソファと自販機が据えられた休憩ブースで一服しよう、と素直に認めるのは癪だが一応相棒であるところの宇都宮と二人、足を向けたのはそう変わった日常ではなかった。
 そう、変わっていたのは目指した先のソファに腰掛けている人物と、その普段からは考えられないような状態だっただけで。
 金縛りにあったかのように微動だにしない高崎の様子に、宇都宮の細い眉がぴくりと跳ね上がる。若干不機嫌さを滲ませたその表情は普段ならば警戒レベルの上昇を告げてくれるはずのサインだったのだが、現時点でそれを理解するだけの余裕は高崎には存在しなかった。だって、それよりずっと目の前の『アレ』の方が驚愕を与えてくれたのだから仕方ない。
 休憩ブースの方を見詰めたまま動かない高崎が目の前にいる所為で、宇都宮にはその先の光景をきちんと把握する事は難しい。せめてもこの木偶の坊を退かせば毒の言い様もからかいようもあるのだろうが、把握出来ないものは推測するにも材料が足りな過ぎる。
「ちょっと高崎、君なにやって……」
 とりあえずこの凍りついた相棒をどうにかするのが先決だろうと、無理矢理目の前の背中を押し退けて、そして明らかになった事態の詳細はけれど己の予想をはるかに上回っていた。
 宇都宮はよほどの事が無い限りは、どんなトラブルでも楽しめるだけの余裕と冷静に振る舞える理性を手放す事はない。慌てたって仕方が無いし、そもそも自分がどうしようもないような状態に陥っている時はこの相棒の方がよほど楽しい事になっているので、楽しんだ方が得だった、という歴史もある。

 だがしかし、これはいくらなんでも。

 そんな宇都宮の理解と余裕の範疇を超える光景を目の前に、傍らの相棒と同じように絶句して固まる以外に、取れる行動は見つけられない。
「う、宇都宮……俺、夢見てないよな?これ現実だよな?」
「……僕と君が同じ白昼夢を見てない限りはそうなんじゃない?認めたくないけど」
 どうにかこうにか紡いだ会話も、現実逃避の色が濃い。そんな彼らの眼前にあったのは、常ならば想像すら難しいような極めて珍しい光景だった。

 休憩ブースのソファの上、何故か正座した状態でぼけーっと窓の外を見つめる人影。
 それが濃緑色の制服を着ていて、尚且つ前が肌蹴ているとなったら該当する人物はひとりしかいない。
 艶やかな黒髪が窓からの陽光を反射して天使の輪を形成している辺りからこの人物が彼らの上司であるところの上越上官である事は間違いないのだろうが、彼のセレクトとしてはあり得ない『ポッカ ミルクセーキ(ホット)』を両手で持っている辺りが更に謎を呼んだ。
「ねえ、高崎……確か上越上官って」
「嘘だ、上官がミルクセーキなんて、あの人すっげえ辛党であの手のものは砂糖の味しかしないって豪語してたのに……!」
 甘いものが苦手、というわけでもないのだろうが、どれを食べても砂糖の味しかしない、甘いことしかわからない、とあの調子で肩を竦めていたので、上越上官が自分から買い求めるものとして一番あり得ない飲料と普段の様子からかけ離れたボケっぷり、という組み合わせは二人の間に更なる混乱を招く。
 上越上官という人物は平たく言えば宇都宮と同類で、どんなトラブルでも大抵楽しめる種類の人物だったはずだ。許容範囲を超えたとしてもこういったボケた方向に行くような性質ではなく、むしろ腹癒せに周囲に混乱を招く事を選びそうなものなのに。
 主にその被害者であるところの高崎と、同属嫌悪を覚えている宇都宮は揃って良く似た顔を合わせ、この状態をどうしたものかと視線を迷わせる。おそらくはこのまま放置した方が自分たちの為ではあるような気がするのだが、彼をこのまま置いておけば、彼が遭遇したのだろう何か途方もない事を、みすみす招き寄せて直接かかわる羽目になるかもしれない、という危惧もあった。
 そんな戸惑いがソファの上に正座したままボケている上越にも伝わったのだろうか、不意に半眼のまま窓の外を見つめていた彼が瞬きをひとつ落として、ゆるりと此方にその視線を寄こした。
「……高崎、と。宇都宮、かい?」
「「YES,上官!」」
 ボケていようがひと癖もふた癖もあろうが、この存在は自分たちにとっての上官である。ほぼ反射的にぴしりと背筋を伸ばして揃ってソファの上の上越に向き直った二人は、それまで明らかに死んでいた眼にほんの少しだけ理性の光が戻っているのを見て取った。
 これならば多少の話は聞けるのではなかろうか、と生来の気質も手伝って宇都宮の表情には何か企んだような胡散臭い笑みが戻り、高崎は高崎で直属の上司の様子が好転した事にほっと吐息を零す。
 そんな二人の様子をどう思ったのかはわからないが、上越は手の中のミルクセーキをまじまじと見据え、次いでそれをぐいっと一息に飲み干すと、かん!と軽く甲高い音を立ててテーブルの上に据え置いた。
「ああ、そうか、ここ上野だったね」
 そうか僕いつのまにか上野まで来てたんだなあ、と呟く上越の様子は、やはり相当におかしい。
 おかしいがそれでも言語が通じる状態になったことにほっとしながら、高崎は恐る恐る目の前の上司にこの状態を招いた何某かを尋ねてみる。
「その……上越上官、一体何があったんでしょうか……?」
 ぴくり、と上越のこめかみが僅かに引き攣る。そっと伏せた視線が斜めによぎるにあたって、これは相当に彼の許容範囲外の事が起きたのだろうと推測する事は容易だったが、その詳細を想像する事は高崎の身に余る。
 何せ、『走ってみたかったから』という理由で人から制服を強奪して在来線を走るような上司である。そんな彼の許容範囲外とは一体どういったものなのだろうと、半分は怖いもの見たさで問いを続けようとした高崎だったが、それより先に上越がすっくとソファから立ち上がる方が早かった。
「――上野じゃ駄目だ、もっと遠く……うん、とりあえず大宮で、明日以降は新潟支社に詰めれば……」
 ぶつぶつと逃亡計画らしきものを呟く上司に慄く二人の横をすり抜けて、上越はすたすたとホームの方へと足を向けてしまう。呆気に取られて何も言えないまま彼が去って行った先を振り返った二人の部下にようやく気付いたのだろう、上越は半身だけくるりと振り返り、何処か重苦しい声色で彼にとっては最大級の親切とも言える忠告を投げかける。
「高崎、他ならぬ君だから忠告しておくよ。少なくとも私が戻るまで東海道には近づかない方がいい」
「は……?」
 近づかない方がいい、と言われても東海道は自分たちと湘南新宿ラインを形成する路線であるからして、彼が東海や西日本に詰めていない限りは顔を合わせない方が難しいし、ジュニアと呼ぶ方が自然だ。上越の言葉だからひょっとしたら東海道上官を指す名前なのかも知れなかったが、そもそもかの上官とは顔を合わせる事すら一年に数回あるかないかという希少さだ、わざわざ忠告を寄こすような事はないだろう。
 言葉を理解出来ないままに首を傾げた高崎を押し退けるようにして、宇都宮はじっと目の前の食えない上司を見つめる。
「それは……貴方が今此処に居ることと何か関係があると解釈してよろしいので?」
「好きに取ればいいよ、それ以上のお節介は私の趣味じゃない。……だが、君はきっと私の同じタイプだろうと思うんだけどね?」
 違うかい宇都宮?と漸く常の上越らしい猫のような笑みを浮かべる上官に、宇都宮は一瞬答えを探すように視線を彷徨わせ、次いで複雑な感情を押し殺したかのような微笑みで腰を折った。
「YES,上官。ご厚意に感謝します」
 宇都宮のその言葉に返事は返さず、ただひらりと右手を振って上越は通路の先へと消えていった。状況がつかめないままに去ってゆく上越の背中と傍らの宇都宮の顔を交互に見ていた高崎だったが、宇都宮の表情から段々と張り付けたような笑みが剥がれおちて、少し余裕の無い真剣な表情になるのだけはわかった。
「う、うつのみや……?」
「何ボサっとしてんのさ、折角あの食えない上官が忠告なんて寄こしたんだよ?」
 やっぱりとりあえず大宮かな、とぶつぶつと呟く宇都宮の様子は、先ほどまでの上越と良く似ている。おもむろに腕を取られ、高崎を引きずるようにして宇都宮もまた己のホームの方へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待てって、一体何が何だか……!?」
「いいから行くよ?あと当分こっちには戻らないからね」
 この機会に件のだるまるブログでも更新しとけばいいじゃない、と漸く宇都宮らしい笑みを浮かべた相棒は、けれど上官と同じく肝心な事は何一つ語らない。語らないが、高崎の本能もまた当分東京駅に近づくべきでない、ということだけは理解できた。
 悪い東海道、湘南新宿ラインはおまえに任せた、と心の中で手を合わせ、高崎は手を引かれるままに上野駅の在来線ホームへと来た道を引き返した。

 そうして慌ただしく新幹線と在来線が去った休憩ブースの机の上で、置き去りにされたミルクセーキの缶だけが静かに陽光を受けて佇んでいた。



2009.08.25.

今回ちょっと番外編。逃亡した上越とうつたか。
上越は自分が思っているより常識的でキャパ低めなので、想定外の事態が起こると弱い気がするんです。普段は想定している事態が多すぎるだけで。
上越は上越なりに高崎が可愛いので、宇都宮に塩を送るのは癪だけどちょっと教えてあげました。でも実際は高崎はさくっと受け入れる人な気もするんだけどね!