猟奇的な彼女


6.

 こめかみに右の人差し指と中指を当て、酷く疲れたような表情の東北が溜息をひとつ。
「……つまり、そこの女性が俺達の知る東海道だと。そういうことか」
「あー、うん、信じたくない気持ちはものすごくよくわかるけど、悲しいかな現実だから諦めてくれよ」
 すい、と泳がせた視線の先では、黒のパンツスーツに身を包んだ女性が子供らしい柔軟さで現実を受け入れた長野と談笑しながらティーカップを傾けており、異様に笑顔が眩しい秋田がそれを見守っている。……ちなみに、上越は現状に混乱した挙句に常の彼には有り得ない事に敵前逃亡を決行し、山形はそれ相応に驚愕はしているのだろう、先ほどから東北と共に山陽とジュニアの話を聞いているのだが、一言も発しないどころか微動だにしない。
 彼女を東海道だと認めるのは、難しいようでいて安易でもある。
 少しはねた癖っ毛、引き結ばれた口元、薄い肩。何より、その真っ直ぐ過ぎて怖くなるような強い視線を向ける双眸。
 個々のパーツを比べれば、確かにそれは東海道との相似があまりにも多い女性だ。山陽の傍らで逃げ出したいような顔をしているジュニアと並べたなら、それは更に際立つだろう。
 けれども、非常識極まりない事象も起こるものだ。何よりもこの現状をあの東海道がヒステリーを起こすでもなく受け入れている、という事態が余計に混乱に拍車をかけている気がする。
 なにせ、『あの』東海道が!雨風に遅延し降雪に運休しては泣き喚いている男が、こんな当事者には悲痛だが基本は荒唐無稽な現実を前にして、慌てるでも騒ぐでもなく淡々と其処にあるという事が信じられるだろうか。
 自然深くなった眉間の皺に、それなりに聡い山陽は東北の内心を悟ったようだ。苦味が強い苦笑を浮かべ、ひらひらと手を振って見せる。
「本人曰く『走れれば問題無い』そーですよ。まあ確かに今のところ運行に支障は出てねーけど」
「……この先の保証は無い、ということか」
 YES、と肩を竦めて見せて、山陽の視線もまた少し離れた場所で会話に興じている東海道と長野へと向かう。ふ、と緩む表情は自覚があるのか無いのか、仕方無い、と言いながらも心底愛しいものを見るような優しさに満ちている。
 長過ぎる付き合いの弊害か、山陽新幹線という男もまた東海道とは別の意味で厄介な性質持ちだ。すべてを笑顔の中に押し込めて、どうでもいいような泣き事や不平不満は声高に叫ぶ割には、最も肝要な部分は己の中だけで処理をしようとしてしまう悪癖。特に彼の傍らにある東海道にだけはあらゆる負の部分を隠し通そうとして、またその器用さ故に成功してしまうのが余計に救いがない。
 その辺りの屈折した感情を面白がった上越がつついていたのを知っているが、東北は自ら首を突っ込むような真似はした事がなかった。秋田は呆れ混じりに不器用な彼を窘めながら東海道に知らせるような事はせず、山形の立ち位置は良く知らないが恐らくは東海道寄りの意見を持っているのだろう。
 長野と他愛無い話題で薄らと笑みを浮かべて会話を交わす東海道。
 彼に自覚が無いのは勝手だが、誇大表現でなく日本の交通網を支える存在である彼に、万一の事などあってはならない。
 眉間の皺を一層深くして、東北は異様に重く感じる腰をソファから上げる。そのまま鈍い足取りで渦中の存在である彼、否彼女の傍へと歩み寄った。
「……東海道」
「ああ、東北。話は済んだか?此方の状況に問題がなければ、私は通常業務に戻ろうかと――」
 常と変らぬフラットな声は、けれど記憶にあるより若干高めで甘い。くらり、と余計にダメージを受けたような錯覚を必死で振り払うと、東北は心がけて低く重い声で東海道の言葉を遮った。
「おまえはこのまま医務室に行け、東海道。ドクターには此方から連絡を入れておくし、おまえの業務は山陽と俺が請け負う」
「東北?」
 訝しげに呼ばれた名を告げる音。それすらまるで見知らぬもののようで落ち着かない。鈍い、鈍いと思ってはいたが、こういう場面でさえ発揮されるというのなら、もはや犯罪的というべきではないのか。
 こんな生き物を長年放置してきた山陽と、それを更に助長してしまった山形に恨み節を送りたい気分を噛み殺し、東北は真っ直ぐに東海道の双眸を見据えた。ここで逸らしてしまったら二度と東海道に要望を受け入れさせる事は不可能だということは、今までの経験から熟知している。
 東北とて彼との付き合いは既に二十年を超える。この非常に扱いにくい王様の性質は、東北は厄介だけれど嫌いではなかった。
 だからこそ、何より優先されるべきは『彼の無事』。
「この状況が明らかに異常であることくらいはおまえも承知しているはずだ」
 言外に正常運行を継続するために必要なのは今現在の状況を完全に把握することだ、と告げる東北の言葉に、東海道の眉がぴくりと跳ねる。
 少しばかり鋭い気配が漂う二人の間に、長野はおろおろと東北と東海道を見比べ、そして秋田は東海道を庇うようにその肩に手を置いた。
「ちょっと、東北。そんな言い方しなくてもいいじゃない」
 常よりも更に二回りは小さくなってしまった彼、もとい彼女は、長身でそこそこに立派な体躯の秋田が背に庇うようにしてしまえば、すっぽりと隠されてしまう。
 普段なら東北の意見に迎合してさっさと医務室送りにする事に賛同してくれる彼の反論に、更に頭が痛くなるような気がするのはどうしてだろう。
「正論だ。そして現状で最も必要な事項だろう」
「東海道だって混乱してるんだよ。今必要なのは落ち着くための時間なんじゃない?仕事をすることで落ち着けるんならそれも必要だと思うけどな」
「起こるかも知れないアクシデントの要因を放置してか?万単位の乗客を巻き込むと分かっているのだから、ifの可能性を考えるのは当然だと思うが」
「珍しく饒舌じゃない東北。現状こうして当人の自覚がないんだから、外見上の性別以外に目立った変化は無いって事じゃないの?そこまでの危険性は無いんじゃないかな」
 基本此処まで東北に異議を申し立てる事のない秋田の台詞に、更に長野がはらはらと自分たちを見比べている。更に秋田の背後に庇われた形の東海道も、わけがわからないなりに状況の拙さに気づいたのだろう、同じように視線を迷わせていた。
 けれどもそれが何に起因しているのかが全く理解できない辺りが東海道が東海道たる所以であり、こうして本人を蚊帳の外に周囲が心配と疑念に駆られる要因でもある。
 たぶん、本人は本当に『ちょっと縮んであったものが無くなって余分なものが増えた』程度の認識しかないのだろう。彼にとっては無事に走れる、それこそが重要で唯一の判断基準。だからこそ山陽と弟の心配を理解出来ず、こうして東北の言葉を受容れかねているのだろうから。

 けれども自分たちにとっては彼の異変は一大事だ。
 最初の新幹線、そして今尚日本を代表する高速鉄道。
 彼の異変は即ち日本の大動脈を切断する事に等しいのだと、何故彼が気付く事がないのか。そして、それでなくても男女の差というのは相応に大変なものが付き纏うという一般論も。

 君がしたいようにすればいいよ、とこの上なく甘い声で東海道に語りかける秋田の声に、東海道の双眸が明らかな困惑を刷いてゆらりと揺れている。
 アイツは本気で東海道を口説く気か、と更に激しくなった頭痛にこめかみを押さえ、東北は慣れない説教役に途方もない疲労感を覚えて。頼むから何時もの秋田を返して欲しい、と柄でもないのに居るかどうかも分からない神様に願いつつ天井を見上げる。
 視界の端で慌てたように東海道に駆け寄って秋田から引き剥がした山陽の姿が見えたような気がしたが、もうわざわざ考えるのすら面倒臭い。

「ちょ、秋田!何どさくさに東海道口説いてやがる!?」
 べりっ、と音がするような性急な仕草で秋田から東海道を引き剥がした山陽は、秋田より若干穏当な感じに彼を背後に置きつつ、本気モードな笑顔を浮かべた彼に向けて文句をつけた。
 けれど敵もさるもので、秋田は勝ち誇ったような頬笑みをその端正な唇の端に浮かべ、左手を腰に当てて挑発するように山陽を眺める。
「ナニ山陽、君の甲斐性が無いのを僕の所為にしないでくれる?可愛い子は口説くのが礼儀って習わなかったの?」
「おまえの礼儀はおかしい、おかしいぞ秋田!つかそれは東海道なんだからな!」
「関係ないでしょ、可愛いものは可愛いよ!」
「いや関係はあるだろう秋田、俺は別に可愛くはないと思うが……」
 流石にこの台詞にはぎょっとした東海道が、山陽の陰からおそるおそる否定の言葉を紡ぐが、綺麗過ぎて怖い秋田の笑顔に最後まで言い切る事が出来ず、また山陽からも『コイツが可愛いのは否定しねーよ!』とドツボな発言が出るにあたって顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 ……ああ、俺も上越のように逃げておけば良かった。

 混乱の度合いが激しくなるばかりの執務室の中で、偶然視線の合った東海道の弟、ジュニアはひどく乾いた笑いを浮かべている。彼もまた今回の騒動の被害者に違いない。ある意味周辺の人間の方が被害を被るとは皮肉な話だ。
 きっと自分もあんな顔をしているに違いない、と考えながら、東北はこの不条理な現実の合理的解決は不可能である事を悟らずには居られなかった。



2009.03.24.

ある意味この話では常識を持っている方が苦労するという良い見本。
上越は兄が姉になった事実に耐えきれずに逃亡しましたが、ある意味それが一番賢い気がします。そしてこまち様超男前!