猟奇的な彼女


5.

 何とも言えない気不味い時間を同僚の弟であり自分の部下でもある東海道ジュニアを生贄にすることでやり過ごした山陽は、慣れ親しんだ東京駅のホームに降り立ち深く吐息を吐きだした。
 自分の駅ではないけれど、ずっと共に走ってきた相棒の起点駅である。自然自分もまた馴染みが深く、東日本を含めた高速鉄道全体を統括する執務室の存在もあって、此方で過ごす事も多いからだ。
 また、それよりも今回に於いて重要な意味を持つのは。

「山陽、何をそんなところで呆けている。ただでさえ予定よりも遅れているんだ、さっさと戻るぞ」
「……おぅ」

 自分が知る彼よりも、一段低くしないと合わない視線。
 偉そうな口調はそのままだけれど、覚えがあるより高い声。翻る上着の裾は濃緑色では無くて僅かに光沢がかった黒。
 そのどれもが彼と等符号で結ばれていた全てを否定して、それでも自分の本能と彼自身が目の前に居る女性を『東海道新幹線』だと理解する。
 どう考えたってこの状況はおかしい。東海道の身体に何が起こっているのか、精密検査にかけたっていいぐらいだ。
 ところが当の本人は「走れるんだから問題無いだろう」とけろりと告げるのだから訳が分からない。こんな状況で冷静になれるなら、普段の降雪・豪雨・事故の際にも落ち着いていて欲しいものである。
 傍らに無言のまま立ち尽くしているジュニアは速攻逃げ出したいのがありありと見て取れたが、そうはいくか。何せ日頃の行いが行いなので、俺と女子大生テイストな東海道が二人で行ったところで何かの冗談だと思われるのが関の山だ。
 俺在来線なのに、高速鉄道関係ないのに、とぶつぶつと文句を言っているジュニアだが、それでも大人しく付いてくるのはひとえにあの状態の兄が心配だからだろう。羽交い絞めにしてドナドナしなくて済むのは気力体力が著しく消耗している現在では至極有り難い。

 颯爽と、風を切るように胸を張って歩く東海道は相変わらず格好良い。
 それが女性だろうと男性だろうと、その前を向いて歩く東海道という存在そのものが損なわれない限りはきっと格好良いままだろう。
 振り向く事は一度たりとも無い。それは自分たちが彼を追う事を微塵も疑わないからであり、それは紛れもなく寄せられた信頼に起因するのだと知っている。
 山陽のやや後方を歩くジュニアと顔を見合わせ、互いの顔に浮かんだ微苦笑に更にそれを深くする。変わってしまったのに変わらない、そんな後姿は形は違えど自分たちが良く知る彼のものでしかなかったから。

 だからこそ、自分たちは迷いなく彼の後を追う。
 その背中を、見失う事のないように。




 東海道・山陽新幹線のホームから高速鉄道の執務室までの通路は、自分たち以外には僅かな職員が利用するのみで、基本的には無人である事が殆どだった。偶に職員が足早に通り過ぎるのとすれ違う事はあったが、それとて一年に何度かあるかも知れない、程度の頻度であり、つまりは自分たち専用通路、と言い切ってしまっても過言ではない。
 唯一の例外は隣を歩く東海道本線、自分たちがジュニアと呼ぶ彼と同じ名を持ち同じような架線を走る弟だったが、それとて山陽が不在の区間で人事不詳に陥った兄を抱えて放り投げるためだったりするので、頻度としてはやはり少ないし、特例中の特例でもある。
 かつかつとヒールの音も高らかに歩く女性の姿はこんな通路でなければ人目を引く事は間違いなく、彼女との関係性をその後詰問される未来が目に見えるような二人にとってはきっと幸いだったのだろう。

 けれども、それも重厚な木製の扉の前に辿り着く前までの話だ。

 これで二人だけの肩に圧し掛かっていた現状への責任が多少なりとも投げられる、と安堵の吐息を吐きだした山陽とジュニアだったが、いざ室内へ入ろうとして現状の性質の悪さに今さらながらに気付かされる。
 あの制服姿ならまだしも、現在就活中の女子大生にしか見えない東海道新幹線、彼もとい彼女が自分たちの同僚なのだと、果たして彼らは本当に信じてくれるだろうか。
 その誤解を避けるためにジュニアを連れてきたけれど、彼さえ巻き込んだ山陽のジョークだと誤解されたりしないだろうか。そしてそれを幸いと東海道がそのまま職務に戻って医者にも行かないで走り続ける、なんてことになったりは……!
 ごくり、と息を飲み、浮かぶ絶望的な未来予想図にその扉を開ける事を躊躇している山陽と、それのみならず別の意味での若干の気遅れも加算されたジュニアの手がドアノブに伸びる事は無く。
 そんな二人に焦れたような東海道の細い手が無造作にかけられるのは、ある意味当然な物事の帰結だった。

 ……この場合に於いての善悪は無視して、の話だが。

「あれ、今日は遅かったじゃない東海ど……」

 故に、にこにことどこか裏があるような頬笑みを浮かべて入室者を迎えた上越の表情が予想外のものとの遭遇にがちりと固まるのを誰一人として止める事も出来ず。

 自然、訪れるのはどうにもきまずい沈黙。

 固まったままぴくりとも動かない上越、ぽかんと口を空けてドアの方を(否正確には変貌してしまった東海道を)見つめる長野。
 状況を把握しているのかいないのか、東北の眉間の皺は更にものすごい事になっているし、山形は細い目を少し見開いただけだったが、その手元で捲っていた野鳥図鑑のページがばらばらと音を立てて慣性の法則に従っているところを見るとそれなりに驚いてはいるのだろう。
 けれども、後に振り返って思えばそんな驚愕の末の混乱など些細なものだったのだ。実際山陽とジュニアだって、あれだけ大騒ぎしたけれど最終的には山陽の頬に残る痛みが負債と言えばそうだという程度で済んだではないか。

 だがしかし、現実というのはいつも突拍子も無く同時に無力な存在を嘲笑うように皮肉なものである。

 言葉の途中で固まってしまった上越に、何をぼうっとしているんだと眉を吊り上げかけた東海道も、流石に室内の異様な空気に感じるものはあったらしい。
 なんとなくびくついた様子で視線を迷わせている東海道に、けれども差し出された手があった。白い手袋に包まれた指先が宥めるように頬を辿り、あまりの事に呆気に取られている周囲を置き去りにしたまま彼は薄らとどこか甘い頬笑みを浮かべて頭ひとつ分以上低い位置にある東海道の双眸を覗き込んだ。

「ねえ、君。そんなに怒ってたら、折角の可愛い顔が台無しじゃない」

 ふわ、と同僚である自分たちでさえ滅多に見た事のない、否、レベルから言えばたぶん初めて見るのだろう彼……秋田の口説きモードな声と表情に、山陽とジュニアの頭の中を最上級のレッドシグナルが駆け巡る。

 駄目だ、これ以上東海道(兄)を秋田の傍に置いておいてはいけない!!

 一瞬のアイコンタクトの後にべりっ、と音がするほど見事にその腕の中に東海道を抱き込んだ二人の目の前で、秋田の眼が不穏に輝く。すう、と細められた瞳と弧を描く口元が壮絶に恐ろしく、思わず西日本統括の高速鉄道と三分の一は西日本所属の在来線は、揃ってごくりと息を飲み込んだ。

『ヤベエ……!秋田のヤツ、結構本気だ!!』
『俺あんな秋田上官見たことないですよ山陽サン!マジですっげえ怖いんすけど!』

 無言のままに意志の疎通を図るある意味共犯者な上司部下の二人は、ひょっとしたら此処に来た事で責任を投げるどころか余計な荷物を背負い込んだのではなかろうか、といまさらながらに気付く。
 けれども二人の思考を余所に、怒りと羞恥とそれ以外の何かにふるふる震える(やっぱり弟だけはターゲット外の)東海道の見事なアッパーが、山陽の顎に炸裂するのだった。



2008.12.06.

相変わらず兄は山陽上官にだけ猟奇的な仕打ちを躊躇いません。
そしてダークホース登場。こまちはきっと普通に女の子が好きだと思う。そしてフェロモン半端無い(笑)