猟奇的な彼女
3.
なんだか、妙に周りが騒がしい気がする。
これが東京駅ならばそれなりに大人数だからして多少の騒がしさは覚悟しているが、東海道の最後の記憶は大阪駅の運転指令所で途切れている。まさか意識を失ったまま大阪→東京間を移動するわけもないから、自分は今も西の地に居るはずだ。
そして、大阪ならば乗り入れが決まったとは言っても未だ九州が此処まで来る事は滅多に無く(しかも東海道が九州を毛嫌いしている事を知っている山陽がうまく取り計らってスケジュールが被らないように調整してくれているために、姿を見たことすら実はまだ無い)、此処で会うのは西日本の職員と僅かな在来線、あとは長く共に走り続けた山陽だけだ。そして場所が高速鉄道の運転指令所である以上、騒がしい事は滅多に無い。
山陽は陽気でおちゃらけていて余分な言葉がすこぶる多い割に肝心な事を言わない男だが、無意味に騒ぎ立てるような真似もする事は無い。
互いに遠慮がないので好き放題言い合える間柄の為、どうやら間に立った他人には相当不安な思いをさせているらしいが、東海道と山陽の間にはそれなりのルールや境界線のようなものが確かに存在していて、そこを踏み越える事がない限り後に引きずる事は滅多に無い。業務上の諍いは互いに己の会社の看板を背負っているが故に余計に激しくもなるのだが、長い付き合いの間に妥協点の見つけ方もうまくなった。
そうして長年付き合ってきた山陽新幹線の名を持つ男に、東海道は絶大な信頼を寄せている。例えそれがどんなに伝わりにくく分かりにくいものだったとしても、東海道の中でだけは真実だ。誤解も曲解も慣れたもので怖くはないが、自分だけはそれを見失う事はないだろうと思う。
ぼうっとしながらそんな事を考えていたのは、後で思えば予感のようなものだったかも知れない。けれども現時点ではただ単に眠りを妨げる騒がしさを誰何する純粋な疑問だけが己を占めていて、重い瞼をどうにか持ち上げて、ぼうっとした視界に映る世界を眺めた。
記憶の最後の光景だった新大阪ではない。この滅多に帰る事は無いのに懐かしい空気を纏った部屋は、確か名古屋の自室ではなかったろうか。
「と、とうかいどー?おい、大丈夫か?」
「兄貴!どっか痛いとか苦しいとかないか?」
居る事を疑わなかった山陽と、居るとは思わなかった己の弟。
ああ騒がしかったのは二人だったからか、と理不尽にも関わらず寝ぼけた頭はすとんとそれを理解し、言われた通りに自分の状態を確認してみる。
痛いことはない。別に苦しくもない。
ただ単にとてつもなく眠くてだるい気がするが、それは寝起きが実はあまり良くない東海道にとっては珍しくないことだったので割愛してもいいだろう。
寝起きが良くない、というよりオマエの場合は単にオーバーワークで慢性的に睡眠不足+疲労過多なだけだ、と溜息交じりに山陽に言われた回数は既に忘れてしまったが、別に仕事に不都合は無いのだから問題あるまい。
アイツといい弟といい、どうしてこれほどまでに過保護なのか。自分のことくらい自分でよくわかっているというのに、何度も言い聞かせてくるのはよほど自分が頼りなく見えるのだろうか。
それはいけない、自分が彼らを最後のところでは庇護しなくてはならないのに、逆に守られるようでは己がこの名を名乗る意味がない。
心配そうな二人の眼差しを撥ね退けるように起き上がろうとして、東海道は己の着ている制服の肩がずるりと落ちる感触に眉を顰めた。
「……なんだこれは」
肩のラインがずれて、袖が余ったようになった制服とシャツ。そう言えばいつもきっちりと締めているベルトもかなり緩いようだ。自分が寝ている間に山陽の服でも着せられたのだと言われたら信じてしまいそうなほどにぶかぶかの制服に呆然としながらも、その最後の拠り所のような考えすら打ち砕くが如く余った袖口にまぎれもない己が三日前に繕った痕を見つけてしまい気が遠くなった。
こちらを見つめる同僚と弟の表情は沈痛という言葉があまりに似合う有様で、己の身に何が起こったのか、東海道は分からないなりに何かしらの危機感と絶望を覚える。
思わず呟いた声、それが思いがけず甘く高いものだったこと。
余った袖口から覗く白い指先が、覚えているものより細かったこと。
そして何より、下半身の決定的な違和感は確かめたいようなそれをやってしまった後には戻れないような。
くらくらとした頭を押さえて、東海道は口中で音にならない恨み事を呟きながら立ち上がる。重力に従順なスラックスが腰の辺りでようやく止まっている事実に余計に絶望を重ねながら、努めて低く重く言葉を紡ぐ。
「――運行は?」
告げた言葉がよほど予想外だったのだろうか。山陽は『へ?』と一声零したまま絶句しているし、弟はぱちぱちと瞬きをして視線を彷徨わせている。
埒が明かん、と吐き捨てて、東海道は携帯の短縮ナンバーを押して何処かにコールする。かっきり2コールで繋がった先と二言三言遣り取りをすると、ほっと息を吐き出してぱたりと携帯を閉じた。
「どうやら遅延も運休も出ていないようだな。……山陽、戻るぞ」
心配していたような最悪の状況には陥っていない事に安堵しながら、東海道は何の躊躇いもなく通常業務への復帰を口にした。何せ東海道にとって、重要なのは定時運行・迅速な業務の執行だ。その前には多少己の身体がどうこうなどと些細な問題でしかない。
けれども目の前の同僚と弟にとっては違ったようで、思ってもみない事を言われた、と顔に書いてあるような驚愕の表情で山陽はがっしと東海道の肩を掴んだ。
「ちょ、マジ?本気で言ってんのかそれ?オマエ現状がどんだけオカシイかわかってる?」
畳みかけるような言葉と、がくがくと此方を揺さぶる腕の強さが不愉快だ。何せ原因は不明だが少しばかり縮んだらしい自分は以前よりも更に非力で、揺さぶる腕に逆らうことすら難しい。
だがしかし、現状で遅れや事故が無いからといって長く業務を空けて良いというわけでもあるまい。別に動けないわけでも苦痛を覚えているわけでもないのに仕事をしない、という選択肢は東海道の中に存在しないのだから。
「現状が不本意なのは認めるが、重要なのは我々がきちんと運行していることだろう。異常なのは私だってわかっている、業務終了後にドクターに見てもらおうと……」
「頼むからソレ、今すぐって選択肢を作ってくんねえ?」
言いかけたところで、山陽の懇願する声が降ってくる。ぎゅっと掴まれた肩は彼の手に余るほどに薄くて、じわりと滲む苛立ちが素直な心の邪魔をする。
山陽の言葉は尤もだ。けれども、東海道はそれを受け入れるわけにはいかない。此処に彼が居て、弟が居るのだというのなら尚のこと。
「断る。私に暇はないのだと、おまえが一番良く知るだろうに」
「だからって……!」
東海道新幹線は、JR東海のすべてを支えている。
それは比喩でも何でもなく、純粋な事実だ。彼が正常運行していること事態が会社を存続させる最低条件で、それを裏切る事はJR東海という会社に寄せられたすべての信頼を裏切る事に他ならない。少なくとも東海道はそう言われてきたし、それを疑った事もない。自負と自信。己に欠けていたそれを『東海道新幹線』という名前で補って、かつての『特急はと』は日本を代表する高速鉄道へと姿を変えたのだから。
「――先に行く」
ずり落ちる制服に余計に不愉快な思いを覚えながら、東海道は眉をあからさまに顰めて足を進める。
やけに広い上官執務室の絨毯を一歩、二歩と踏みしめて、けれどそこでぴたりと足を止めた。否、止めざるを得ない理由に気づいてしまった。
じっと己の足元を見つめていた東海道は、ゆっくりと振り返って己の弟に一言問いかける。
「……東海道、私の靴を知らないか」
「俺が見た時はアンタもう靴下だけだったけど」
山陽サンが大阪に置いてきたんじゃねえの、と告げる弟の声に、東海道はぐっと拳を握りしめる。細くて頼りない指先がたまらなく不愉快で、余計に八つ当たりのような怒りは加速してゆく。
歯を食いしばれ、と告げるか告げないかのうちに見事に山陽の頬に決まった一撃に、東海道本線の名を持つ弟は
『……ないすすとれーと』
と棒読みのような感想を漏らしたのだった。
2008.09.01.
東海道上官はナチュラルにワーカホリックだよね。無理を無理だとさっぱり気づいてません。
そして一番良く見ている山陽上官のふつーの心配は報われないのがディフォルトです。