猟奇的な彼女


2.

「……話は、理解しました」
「……はい」
「しかしそれで何もかもが許されるとお思いではありませんよね、山陽上官」
「……はい」

 淡々とした言葉とともに、グラスがことりとテーブルの上に置かれる。氷の浮いたアイスコーヒーが半分ほど残ったそれは僅かに汗をかいて滴を垂らし、机上のコースターにじわじわと水の染みを形成してゆく。
 非常に重苦しい、双方にとって居心地の悪い空気を滲ませながら、山陽は目の前の相手のグラスを置いた手が、ゆっくりとこめかみに当てられる様を見守る。
 ごくり、と飲み込んだ空気が形を持っているかのように、腹の底に表現のしようのない気まずさを溜め込んでゆく。
 ふう、と彼の唇から溜息としか形容しようがない吐息が吐きだされるのと、手が外された相手のこめかみに浮き立った血管を確認するのはほぼ同時だった。
「何でよりにもよって新大阪なんかであんな大騒ぎで俺を呼び付けやがりますかアンタは!?しかも兄貴を抱えて走りまわって、今頃どんな噂が何処に広まってるかわかりゃしませんよっ!!」
「俺だって混乱してたんだよ、こんなの一人で抱え込みたくなかったんだよ〜っ!!」
 わっ、と泣き真似をしながら両手に顔を伏せた山陽だが、応接セットのテーブルを挟んだ向かいに陣取るジュニアは兄にそっくりな声で「誤魔化そうったってそうはいきませんからね!ちゃんと責任取ってアンタが兄貴に弁解して下さいよ!」と責め立てる。この兄弟は自覚があるのか無いのかわからないが、互いが居ない場所でのプライベートな振る舞いは良く似ている。それでいながら二人きりでいたら喧嘩をするか空気のようにくっついているかどちらかというのも両極端だ。
 でもちょっとだけそれは羨ましい、と正直な感想を思い浮かべていると、テーブル越しにジュニアの手が山陽の頬をみよ〜っ、と思い切り引っ張った。
「いひゃ!?いひゃいれすとーかいろー!!」
「……ヒトの話はちゃんと聞けってアンタ何回兄貴に詰られてましたっけねえ?俺もそれにすっげー賛成な気分なんすけど」
 にこ、と微笑むと盛大に怒っている時の東海道の笑顔に良く似ている。これは危険だ、と彼の兄との長い付き合いの中で生まれざるを得なかった危険信号が明滅するのを自覚し、山陽は素直に頭を下げた。
「いや、ホントすまん。俺もどうしたらいいのかわからんかったのは本当だ」
「最初からそう言えばいいんですよ。アンタの洒落っ気は時々状況を選ばないにも程があります」
 ぎろり、と少し温度の下がった視線をくれて寄こして、ジュニアは再びテーブルの上のグラスを手に取るとその中身を一気に煽った。からん、と音をたてた氷が蛍光灯の光を弾いて、ぽたり、とテーブルの上に水滴を撒き散らす。

 現在位置はJR名古屋駅・セントラルタワーズ。JR東海本社の上官執務室に隣接する応接室だ。
 山陽の同僚たる東海道新幹線の身に何が起こったのか、それを詳しく把握しているわけではない。ないが、明らかに一回り以上縮んだ彼の状態が普通であるわけでもない。本来ならば荒唐無稽と嘲笑うところだが、あの顔にあの服装でそう断言する事も難しい。
 出来ればジュニアの口から親類にあの年頃の女性がいる事を聞き出したかったところだが、彼はあっさりと肉親と呼べるのはもう兄と隠居している父だけだと断言してしまった。
 またジュニアと合流するまでに散々に混乱を呼び込んでしまったことも事実で、東海道が元に戻ったなら説教三時間は免れまい。
『どうせならさっさとJR東海の管轄区域に連れてきてくれれば良かったんですよ、ここいらの在来は兄貴に不利な事は絶対に口外しませんから』と冷たい眼差しで告げられたジュニアの言葉は至極尤もで、恐らくは己に似て調子の良い西日本の在来たちからどこまで噂が広がるのか、考えただけでも恐ろしい。
 出来れば上越辺りの耳に入る前に差し止めたいところだ。不名誉な噂やからかいの言葉にぎゃーぎゃー騒いでいてくれるうちはいいが、基本的に東海道は意外とネガティヴでペシミストだ。業務上で殊更に自信満々に振舞うのは、そんな素の己を卑下して唾棄すべきものだと思っているからで、そのためにアイツがどれだけ心の悲鳴を押し殺して『東海道新幹線』を成り立たせているのかなんて考えたくもない。
 しかしそれも、彼が本当に何時もどおりの彼に『戻って』くれればの話だ。

『元に戻る、か……嫌な響きだ』

 一回り以上小さくなってしまった東海道。
 彼の成長を当人と父以外では一番良く把握しているだろうジュニアは、己が幼い頃の兄に近い気がするが違う気もする、と告げた。はっきりしない言葉が余計に不安を煽り、未だ目を覚まさない東海道がそれを助長する。
 応接用とは異なるソファに横たえられた同僚の姿は、知っているはずのそれとは似て非なるもので、山陽の困惑は未だに続いている。
 あれの背中が細いのは知っていたけれど、あんな抱えてどきりとするほどに軽く細くはなかった。両手に抱え上げた時ののけぞった喉の白さがやけに鮮やかで、跳ね上がった心臓の鼓動の理由は気づきたくない。気づいてはいけない……
「――って、アレ?」

 がばり、と山陽は屈めていた背を起こしてソファから立ち上がる。唐突な行動に目を見開くジュニアに目もくれず、ずかずかと毛足の長い絨毯を踏みしだいて東海道を寝かせたソファへと足を向けた。
 無茶をしがちな東海道の為に、せめても地元に戻ってきた時くらいは休んでほしいという在来線一同の願いが凝縮されたソファという名の仮眠ベッドは、ちぢんでしまった東海道の全身を横たえて余りある大きさだ。
 目を閉じて眠る彼の頬に手を寄せ、そっと髪を払い首元をくつろげる。まあくつろげるまでもなくぶかぶかだった衿元はそれですっかり露わになって、予想通りの現実に山陽は乾いた笑いを零す事しかできなかった。
「……山陽上官?」
 不審かつ不可解な言動にジュニアの片眉が跳ね上がるが、振り返った山陽のあまりに情けない表情に、文句を言いかけたジュニアが目を見開く。

「いや、もう、これ……どうしよ。つかどーゆーこと?」
 山陽さんの理解の範疇を超えてるんですけどコレ。なあ現実?コレ現実?

 遠い目で呟く山陽の指差した先は、横たわる兄の白い喉元。
 其処には男性にある筈の喉仏も筋張った首筋もない、ただただつるりと滑らかに白い肌があるだけだった。

 ずきずきと痛むこめかみは、そろそろ気のせいではないと残念ながら認めざるを得ない。
 果たしてこの状況は何の試練なのだろうと、東海道本線は深く深く溜息を落としたのだった。



2008.08.18.

東海道弟がジュニアって呼ばれる理由が実は二代目だったりしたらいいな!初代が父で!
そんで上官の劣等感が最初に親の七光り呼ばわりされたところから始まってたりするともっといい。
にょたは混沌なので好き放題。でもカオスだから気にしない!