猟奇的な彼女
14.
「あれ、ええなあ。ウチのヤツの嫁にくれんかなあ」
きびきびと動く濃緑色の制服を纏った背中を見つめながら、ぽつり、と西日本幹部の一人が零した一言。
その一言がこれほどの大事になろうとは、言った本人だって思わなかったに違いない。
東海の大黒柱、ウチと直通もしている高速鉄道が女性になった、という報告に、『東海にそんなギャグをかます茶目っ気があったか……?』とJR西日本の幹部一同は揃って首を傾げた。
融通が利かない、冗談が通じない、合理性最優先、という重要な提携先ではあるがクソ真面目で面白みの無い連中の集まりのような東海の、その核とも言える東海道新幹線は更に生真面目で仕事中毒で冗談どころか軽口さえも通じない堅物だ。
誰が言い出したデマだ、と一笑に付して終わりにしたかったのだが、自社の高速鉄道・山陽新幹線にすら肯定されてしまっては認めないわけにもいかない。
何処までが本当で何処までが噂なのか社内でも色々な憶測が飛び交い、けれどもそれを収束させたのもまた、かの東海の高速鉄道本人だった。
皆が知る彼よりも一回り以上小さくなった彼女は、けれども皆が知る東海道新幹線そのものの態度と口調で混乱を齎した責を詫び、今後も何一つ変わる事は無い、と混乱と不安の全てを切って捨てる。ベストトレインの称号は決して飾り物ではないのだとその言葉、その態度全てで示して、彼女は颯爽と踵を返した。
その背中が。その足取りが、あまりにまっすぐで淀みなく綺麗だったから。
軽やかで迷いの無いそれらに、だからこそ居並ぶ幹部の一人が零した言葉。言った当人だってその場限りの願望だと理解しているからこその単なる夢幻のような願望は、けれども勝手に独り歩きを始めてしまっていて。
「覚悟は出来たか、山陽新幹線」
末期のお祈りの時間くらいはくれてやろう、私にも慈悲の心はあるからな。
「何の覚悟だよ!?つか、俺と東海道の事に余計な口突っ込むなよ!」
いい大人が自己責任で付き合ってる内容に他人がどうこう言う資格はねーよ!
巡り巡って九州と西日本の上官の間に、深刻な亀裂と熾烈な争いの種をまき散らし芽吹かせようとしていた。
じりじりと距離を保ちながら、どうにか九州をやり過ごしてこの部屋から脱出したい山陽と、むろんそんな事を許すつもりはさらさらなくこの場で沈めてやる気満々の九州と。二人の思惑でマーブル模様を描きながら、非常に重苦しい空気が部屋中に蔓延してゆく。
既に二人の間に言葉は無く、時間と共に焦りと不利を滲ませていた山陽の表情が鋭い刃のようなそれへと変わってゆく様に、九州は薄く笑みを滲ませ片眉を吊り上げる。
『……最初からそんな面をしていれば、少しはマシなものを』
へらへらと何が楽しいのか知らないが笑っている男、常に東海道の陰に在り、大した主張もしない軟弱な路線。あれもまた一つの会社を支える高速鉄道の一人だとは分かっていても、それを受け入れるには如何せんこの男の外側は軟弱に過ぎる。
あれなりの処世術の結果なのだろうが、九州としてはそんな男に大切な存在を預けるにはいささかの不安を覚えるのも事実だったから、易々とこの手にかかってしまうようならさっさと追い落とすつもりだった。
けれど、時折彼が見せる冷たい表情。感情が削ぎ落とされた、相手が彼の大事なものを浸食するものか否かを見極める視線。主に東海道が絡んだ時にその側面が見え隠れすると知ったのは何時のことだったろうか。
冗談混じりに告げられた、かつての『妹』への重過ぎるほどの執着。軽い言葉に誤魔化されてはいたものの、それは背負う方も向ける方も疲弊する強さだと知る故に、九州もまた退くわけにはいかない。
無言のままに間合いを取る二人の間で、壁掛けのアナログ時計だけがかちかちと規則的な音を刻む。
呼吸すら痛みを伴うような沈黙の中、膠着した事態を打破したのは、互いではなく外部からの干渉……それも、彼らがこうして揉めている元凶とも言える人物の怒号だった。
「何をしている、貴様ら!!!」
良く通るやや高めの声には怒りが滲み、その額には汗と共に青筋が浮いている。相対する山陽と九州を交互に睨みつけ、恐らくはホームから一直線に駆けてきたのだろう東海道は、呼吸を落ち着ける為だろうか、はあ、とひとつ吐息を零した。
そして、東海道の姿と声を認めた途端、それまで刃を纏っているかのようだった山陽の気配ががらりと変わる。笑い上戸で軟弱な仮面が再び相手の顔に張り付くのを悟って、これ以上の追及は無理か、と九州は油断にはならない程度に前身の力を抜いた。
「職員が血相を変えて私のところに来るから何事かと思えば……一体何だ、この惨状は!?」
「あ、いや、あの。東海道ちゃん?」
「確かに新大阪駅そのものはおまえの管轄だが、新幹線ホームとこの部屋の半分は私の管轄でもあるはずだぞ、山陽?」
つかつかと靴音も高らかに迷いなく山陽へと歩み寄った東海道は、何の躊躇いもなく腕を伸ばし、へにゃりと情けない表情を浮かべる山陽の頬を思い切り抓り、ぐいーっと引っ張った。
「いひゃ!?いひゃいれすとーかいろー!」
「痛くしているのだから当たり前だろうが!!少しは反省しろバカ山陽!」
「つーか俺一人悪者!?ちったあこっちの言い分を聞いてくれたっていいじゃんか!」
「おまえの言い分を聞いて後悔した事例がいくつあると思っている!言っておくが修繕費は東海の予算からはビタ一文出さんからな!!」
「んな横暴な!?今こっちの売り上げがどれだけ渋いか知ってるくせに、東海道のイケズ!」
ぎゃんぎゃんとやり合っている二人から完全に置き去りにされた九州は、それでも沈黙を守ったまま二人の様子を、否、正確には罵声を浴びせ続ける東海道の一挙手一投足をじっと見つめていた。
――九州が知る『はと』は。かつての姉妹特急は、こんな言動をした事は無い。
常に人の顔色を伺い、従順で。けれども彼の自尊心を踏み躙るような、彼の存在意義そのものを脅かすような命令にはただ無言で燃えるような眼差しを向けてくる、そんな人物だった。
こんな風にわめき散らす事も、言葉より先に手が出るような事も記憶には無い。ぎゃんぎゃんとまるで子どもの喧嘩のようにやり合っている二人の様子から、どうやら自分が出る幕ではないらしい、という事だけは認めざるを得まい。
「……東海道新幹線」
かつての名ではなく、今の『彼女』の名前。それを呼んだ九州の静かな声に、はっと弾かれたように東海道が振り返る。見覚えがあるようでいて少し異なる、彼ではない彼女。けれど唇がかすかに紡いだ音に、九州はふ、と口元を僅かに緩めた。
「損壊については私に責がある。請求書はJR九州に回せ」
「……何のつもりだ、九州」
警戒するような声色は、九州を名乗る男と東海道の間にあった過去を考えれば当然と呼べるものだろう。あれにそうした態度を取られるような事しかしてこなかったのだから、むしろ望んでそうあるようにしてきた九州にとっては予想範囲内だ。
一瞬だけ浮かべた、何かを慈しむような微笑みをすぐさま慣れた皮肉気なそれへと置き換えて、表情を悟らせないようにわざと眼鏡を押し上げる。
「ふん、いずれ私も此処を使う事になるだろうからな。……こんな安普請の部屋をJRを代表する路線が使っているとあっては、下に示しがつかんだろう」
心配しなくても九州の溢れんばかりの素晴らしいセンスでリフォームしてやろうではないか。
「余計なお世話だっ!!」
使えればいいんだ部屋など、わざわざ貴様の手を借りる必要は認めないからなっ!
ぎりり、とそれだけは変わらない焔を含んだ双眸で向けられる視線に、九州は更に口元の笑みを深くする。……ああそうだ、おまえはそれでいい。
傍にあった頃から、いずれ手を離さねばならない存在だと知っていた。
彼が其処に在ったのは未来への足掛かりに過ぎず、自分を踏み台にしてゆく存在への意趣返しが本気になったのは九州……否、かつての『つばめ』の咎だ。
消えないのならば傷でもいい、いいや記憶の中で風化してゆく優しさよりも痛みを、と望んだ時点で、彼の双眸に宿る焔を綺麗だと思った時点でこの関係はそれ以上にもそれ以下にもならないと決まっている。
だからこそ、これは単なる意趣返しだ。自分には最初から可能性すら与えられていなかった場所に在る者への。そしてそのすべてを知らないままに憤る『妹』への。
「……つばめ?」
今の名ではなく、かつてのそれを呼ぶ東海道の声は無防備に過ぎる。それはもう過ぎ去ってしまった時間の中で、特急つばめが危惧したはとの無防備さに等しくて。ああ時を経てもこんなところばかり変わらなかったのだと苦笑を零しそうになり、九州はそっと彼だった彼女の頭に手を伸ばす。
くせのある黒髪は見た目に反して柔らかく、手入れがあまり行き届いていないこともあってか毛先が僅かに跳ねている。身嗜みは気を付けているのだろうが壊滅的に不器用だった記憶はどうやら今も継続中なようで、ゆるく撫でたくらいでは落ち着かないのもあの頃のままだ。
つばめ、と呼ぶ声色がその挙動の意味を問うのを黙殺し、九州はその冷たい指先で『妹』の髪を梳く。それが今の己に許されている精一杯の接触だと知るが故に、言葉には意味など求めても仕方が無いからだ。
「――あれに泣かされたら直ぐに言え」
この世に生まれてきた事を後悔させてやるくらいは容易いからな、と続けて、九州の視線は山陽へと流れる。指先の冷たさと裏腹に、優しい仕草で己の髪を梳いていったその手をまじまじと見つめ、東海道はぱちりと瞬きをひとつ落とした。
「誰が泣かすかよ、人聞きの悪い」
「さ、さんよう?」
そんな二人の間を遮るように、山陽の腕が東海道の身体を絡め取るのを、九州はけれども今度は無言のままに了承し、くるりと踵を返した。
「邪魔したな、『東海道』」
「九州っ……!」
何かを言おうとして、けれど言うべき言葉が見つけられず。東海道はただするりと傍らをすり抜けていった九州の背中をじっと見つめる。ドアがあった空白を潜り抜け、その背中が廊下へと見えなくなって、何かを堪えていたように長い吐息を零した東海道は、己を抱き止める山陽の顔を見上げた。
「……何を言われた」
「可愛い『妹』に手を出すな、ってよ」
建前と本音が微妙な割合で混ざった、けれど九州本人の口から出た言葉には間違いないそれを告げれば、きゅっと東海道の眉が顰められる。ほぼ真上を向いた姿勢は苦しかろうと、抱きしめた腕を僅かに緩めてその身体を反転させれば抗う様子は無い。思い悩むように顎に細い指を当てたまま、その言葉に込められた意味を探ろうとしている。
意味など探すだけ意味が無い、と言ったら、東海道はどんな反応を示すだろうか。だって山陽には理解できる、九州の言葉には本当にその言葉の意味しか込められてはいない。あの男は本当に、かつての『妹』が可愛いが故に新大阪まで山陽に喧嘩を売りに来た、それが真実なのだから。
俯いて思考の海へと入りかけている東海道の柔らかな髪にキスをひとつ落として、数日ぶりの恋人の温もりを堪能しようと腕に込めた力を込めかけた山陽の服の裾を、細い指がくい、と引く。
でれでれになっている自覚のある緩んだ表情で請われるままにその顔を覗きこめば、予想よりもはるかに据わった眼差しが山陽を睨みつけている。え、ちょっと待って、なんでこの状況でその態度?
「時に山陽。……そもそもがどうして私がおまえの嫁になるならないの話になっているのか、それを問い詰めようと思っておまえを探していたんだが」
「え」
「確かにおまえの、その、恋人だというのは認めるのはやぶさかではないが!よ、嫁などと、そんなことまで了承した覚えはないぞ!!」
「え、ちょ、ちょっと待ってとーかいどー……」
きゅっと眉を寄せて、一気に捲し立てる東海道の反応はとても可愛い部類に入る。入るのだが、経験則的に照れと怒りと混乱が綯い交ぜになったこの状況はとっても危険なような……
俺の話を聞いて、と言い切るその前にしなる細腕が素晴らしい速度で山陽に迫り、盛大な音と共に山陽の左頬に見事な紅葉を形成したのだった。
それでまあ結局。
「だから、その噂自体が尾ひれ腹びれ背びれ付きまくったガセネタなんだって」
恐らくは手を上げてしまった事が居た堪れないのと、自分が噂の当人として扱われていた不愉快と、全くのガセネタだとすればそれはそれで残念な気持ちが複雑に絡み合って不機嫌にそっぽを向く兄だった姉を前にして、東海道本線の名を持つ弟はがっくりと肩を落とした。
この噂が耳に入った時点で恐らくは西のお偉いさんの誰かの悪ノリだろう、と東海道本線をはじめとする西日本との二重籍路線は踏んでいたが、西日本のお笑い体質を知らない面子からしてみれば由々しき事態ではある。
何せ、会社の根幹たる路線を掻っ攫っていこうというのだ。そんな事を許してしまえば、存続にも関わるかも知れない。そもそも規模的に考えれば向こうが婿に来るべきだろう!とこれまた明後日の方向の意見が出始めた辺りで、もはやこれは悪ふざけのレベルを超えてしまっている。
急き立てられるように端迷惑な噂の真相を探った彼らが辿り着いた真相はといえば。
「ちょっと前にアンタこっちに挨拶に来ただろ?そん時に西日本のおっさんの誰かがぽろっと『あんな格好いいのウチにも居たらええな、折角だから山陽の嫁に来てくれんかなー』って笑い話で言ったのが、関連各所を回りまわって巡り巡って、気づいたらあんな噂になってたって事らしいけど」
だから山陽サンだって知らなかっただろ?と拗ねてそっぽを向いた兄へと重ねて言い聞かせてみるが、相変わらず返事は無い。あーこりゃ分かってるけど落ち着きどころが見つからなくて不貞腐れてるな、と理解出来てしまうのは肉親故か、けれどもこうなってしまえば先が長いのも事実だ。
妙に拗れたらまた噂ばかりが先走るのが目に見えているだけに、東海道としては何としても此処で兄を説き伏せて山陽と和解して貰いたい。否、和解というか単に兄が拗ねているだけなので、さっさと機嫌を直して山陽に一言詫びでもすればそれで済むのだ。何せ兄の恋人兼己の上司は、死ぬほど兄に甘い。
今も殴られた事よりは避けられている事実に地味に凹んでいるくらいなので、要は目の前で不貞腐れている兄さえどうにかすればこの居心地の悪い状態は解消されるのだと、外野は皆分かっている。
問題は、落とし所を見失った兄をどう説得するか、なのだが。
「……せめてあからさまに山陽サン避けるのは勘弁してやってよ。アンタだって別れたいわけじゃないんだろ?」
「っ、う、煩いっ!!」
ああそこは分かってるんだな、と何処か生温い気分に陥りながら、東海道はちらりと時計に視線を向けた。もういい加減この意地っ張りを説得するのに疲れているのも事実だったので、実はこっそりとこの場所を騒動の片割れにリークしてあったりする。
ごめんな、兄さん。でも俺はあんたを裏切ったわけじゃねーからな!
どっちにしろ兄の為、という大義名分は失われていないと己に言い聞かせながら、山陽が辿り着くだろう時刻まで兄をこの場に留めるべく、兄と同じ名前の弟は切々と時間稼ぎの説得を続けたのだった。
全速力で頬に絆創膏を貼り付けた山陽がこの場に駆けてくるまで、あと数分。
手応えの無い説得を続ける弟が時間稼ぎをしていることも『そろそろ俺も兄さんのこと姉さんって呼んだ方がいいんかな……』などと考えている事など知る由も無く。
東海道新幹線という名を持つ彼女は、膝の上に置いたままの手をぎゅっと握りしめた。
2009.09.16.
『猟奇的な彼女』、これにておしまい!
あとはオフ本に番外編を幾つか収録予定。うんもうちょっと頑張るよ!