猟奇的な彼女
13.
東海唯一の高速鉄道、その性別が変わってしまった、という珍事から一ヶ月。
最初の頃こそ騒がしかった周囲も、時間が経つにつれてそれを日常と感じてきたのだろう。東海道の姿が見える度にそこかしこで囁かれていた噂話もなりを潜め、当人も新調した女性用の制服の着心地にずいぶんと慣れてきた日の事だった。
別に性別が変わろうと、東海道が成すべき事もその業務内容も何も変わる事は無い。相変わらず机上には山のように書類が積み上がり、鉄道としての実務も全く変わる事は無い。
新しく支給された制服も多少今までのものより上着の丈が長くなった程度で、流石に半月以上も着ていれば慣れもする。申請をする前に用意されていたのだけは未だに謎だが、弟か山陽が気を利かせてくれたのかも知れない。
ある意味記号的に高速鉄道を示すこの濃緑色によって、周囲は東海道という存在を固着して見る事に違和感を感じなくなるのだろうか。戸惑いながら声をかけられる回数は格段に減り、奇異の視線は皆無となったわけではないにせよ、不快を覚えるようなラインに届く事は殆ど無くなった。
見上げた空は青く、夏の圧倒的な色から徐々に高い秋のそれへと変わりつつある。今日も気持ち良く走れそうだ、と目を細め、ホームへと向けるその足取りも淀みない。
それに、この変化も別に忌むものばかりでもなかった。
「おはようございます上官!」
「ああ、おはよう」
男女の雇用機会の均等化という社会風潮の流れを受けて、ここ数年で女性の車掌もかなり増えた。だが、増えたとはいえ男社会なのも事実だったから、少数派である彼女たちの結束は相当に固い。
男性だった頃は業務内容をさらりと交わす程度だった彼女らだが、自分がこうなってからは戸惑う男性諸氏を置き去りに積極的に声をかけてくれるようになった。そうなれば此方もガードが緩むのも道理で、今ではこうしてすれ違う度に挨拶と世間話のひとつやふたつ交わすのが常となっていた。
今回もその多分に漏れず、女性になってずいぶん縮んだ東海道よりさらに小柄な女性車掌の元気の良い挨拶に自身もまたふわりと笑みを浮かべて応え、彼女の側へと歩み寄ってゆく。
「上官は本日は新大阪詰めですか?」
「ああ。東京に戻るのは明日の昼になるな」
西日本主催の会議があるから、と問われた内容に業務上の守秘義務に反しない程度に答えると、けれど何故か彼女の細い眉がきゅっとハの字に顰められる。
どうかしたのか、と小首を傾げて問いかけようとした瞬間、彼女の真摯な眼差しが東海道を見上げる。その悲壮なほどの真剣さに思わず言葉を見失った東海道に、彼女から向けられた問いかけは東海道の予想の遥か上を行っていた。
「……東海道上官は、お嫁に行ったりなさいませんよね!?」
「はぁ!!?」
全く想像もしていなかった単語の羅列に脳内回路が断絶する感覚をリアルで味わいながら、それでもふざけているわけでもない彼女の表情に次の言葉が見失ったまま出てこない。ずっと私たちの上官でいて下さいますよね!?と問いかけというよりは縋るように告げる彼女の言葉に、わけがわからないながらも勿論だ!と反射的に叫ぶ。
嫁?誰が?そもそも何処に?
一体どこからそんな単語が出てくるんだ、この私に!?
ぐるぐると疑問符を脳天に張り付けて静かに混乱している東海道の様子を知ってか否か、車掌の彼女は明らかにほっとした表情で胸をなで下ろしている。よかったぁ、と安堵して笑う表情は贔屓目抜きでも可愛い部類に入るだろうが、現在混乱中の東海道には何の慰めにもならない。
けれどそんな上官の様子には気付かぬまま、彼女はほわりと柔らかい笑みを浮かべて東海道を見上げた。
「西の子たちが偉い人が東海道上官をお嫁に貰う気なんだって言ってたんで、ちょっと不安だったんです……でも、上官はずっと私たちの上官でいて下さいますものね!」
あんな噂を真に受けてしまって恥ずかしい、とちょっと照れながら己の勤務する車両へと乗り込んでゆく彼女の背中を呆然としながら見送って、東海道はばら撒かれたままの言葉の欠片をひとつひとつ拾い上げてみる。
偉い人。西の子。……西日本の、上層部?そして西日本で自分と同格、同質である存在は、あの男しかいない。
確かに自分たちの関係は俗に言うところの『恋人』のようなものに近いかも知れない。だからと言って、東海道は外見なら兎も角中身まで変質したつもりは決して無い。大体俺を嫁に貰う前にあいつが婿に来ればいいんだ、と少しばかりズレた事を考えながら、東海道の中で推測は勝手に確信へとシフトチェンジしている。
ぎゅっと拳を握りしめ、ふつふつと浮かび上がる怒りを己の中に無理矢理に押し込める。少し前に照れ隠しで振り回したバインダーファイルで、山陽にはちょっと洒落にならない怪我を負わせてしまったので、自分なりに相当反省してここ最近は手加減していたのが悪かったのか。そうなのか。
「……どうやら遠慮はいらんようだな、山陽」
今度はあの程度では済まさんぞ、覚悟しろあの能天気!!
先ほどの彼女が乗り込んだのと同じ車両、西へと向かう『のぞみ』へと東海道もまた足を向ける。その背中におどろおどろしい何かが背負われていた事は当人以外の全員が気づいていたけれど、そっと目を逸らせて見なかったふりをする。
――所詮東海道新幹線至上主義の会社、JR東海の社員たちである。
当人からの申請どころか女性になってから数日で、彼もとい彼女に相応しい制服とはどんなデザインか、で白熱した全体会議を繰り広げるくらいは心酔している存在を嫁に、などと言いだした西日本、ひいては当人であるところの山陽への同情などこれっぽっちも存在しない。
怒りの炎を纏ったまま西へと向かう唯一絶対の上官の乗った車両に、発車を待つ車掌、駅員、その他諸々の職員の肩書きを持つ彼らは、揃って静かに己らの上官の健闘を祈りぴしりと敬礼を向けたのだった。
「……なんか、寒気がする」
一方その頃ほぼ同時刻、山陽新幹線は新大阪の執務室でぶるり、と背筋を震わせていた。心当たりは、と言われれば最近はあまりに多過ぎるので杞憂である事を祈るくらいしか出来る事はないのだが。
それも山陽にとっては、己にとって唯一絶対だったものを手に入れたのだから±は0どころかプラスに傾いていると言っても過言ではない。ただ傍に居られれば良かったのも本当だが、触れる権利が欲しかったのも本当だ。それが東海道の意思を伴うのなら、それだけで山陽にはすべてと引き換える意味がある。
まあ、ちょっと痛みをリアルで伴いはするけれど。
無自覚にさすってしまうのは、先日東海道に思い切りバインダーファイルでぶっ叩かれた箇所である。圧縮硬化紙で出来た丈夫なそれに東海道がチェックしていた膨大な量の書類が挟まったファイルは見事な武器となり、山陽のあちこちに見事な青痣を形成してくれた。照れ隠しも半分くらいは入っていたのだろうこの所業には流石に本人も思うところがあったのだろう、ちょっと萎れながら湿布を貼ってくれたのが可愛かったので山陽的には釣りが出ているのだが。
このひと月余り生傷が絶えない上官に部下たちが何か噂をしているのは知っていたが、特に興味は無い。言いたい奴には言わせておけばいいんじゃね?と頭の中に数十年ぶりに春が来ている山陽は、先ほどの寒気の正体もその辺りの類だろうとさっさと杞憂の棚に切って捨てることにする。
何せ今日は数日ぶりに東海道と顔を合わせるのだ、些細な悪寒程度には構っていられない。リニア関連の折衝で東京⇔名古屋間を行ったり来たりしていた東海道と、九州との直通運転を間近に控えて地元での仕事量が増えている山陽のスケジュールは悉くすれ違っていて、ここ数日はすれ違いざまに二言三言交わすのがやっとの状況だった。
確か今日は新大阪泊まりって言ってたもんな、と宿舎の冷蔵庫の中身を思い出しながら時計へと視線を向ける。会議とその後の業務にかかる時間を考えれば、少しばかり備蓄内容が寂しい食料の買い出しに行くくらいの余裕はあるだろうか。幸いにして天候も安定しており、突発的な事故でもない限りは定時で上がれるな、と机上に残った書類をぱらぱらと捲って期日が迫ったものが無い事を確認し、がたりと席を立った。
事前に知らされていた東海道の着時間はもう間もない。迎えに行くくらいはアイツだって怒らないよな、と自分の欲求に言い訳を付けて、ドアノブに手をかけたその瞬間。
全身を貫くような雷にも似て、先ほどまでの悪寒など比べものにならないくらい圧倒的な警報が脳内に鳴り響く。
理屈など無い。ただ其処に居ては危険なのだと、肌がぴりぴりするような空気が教えてくれているような気がする。此処は新大阪の上官執務室、質素に見えてもセキュリティは万全なのだと知っているにも関わらず、そんなものが何の意味も持たないのだと山陽の頭以外の場所が全力で危険を告げるのだ。
その警報の意味を理解するより先にドアノブに伸ばした手を引き、本能が告げるままに後ずさった山陽の行動の正解を告げるように、どうしたらそんな音が出るのか不思議に思えるくらいの壮絶な破壊音と共に、安普請のドアが蝶番ごと吹っ飛んだ。
「な、な……?!」
山陽がつい数秒前まで立っていた場所をドアだった板が転がる。あのままドアを開けようとしていたら先日東海道にバインダーでぶっ叩かれた程度の怪我では済まなかっただろうことを想像してぞっとしたものを覚えた。
だが、ドアというものは勿論勝手に吹っ飛ぶような代物ではない。
「……ふん、他愛も無い」
低い、鋼のような冷徹な声。
それは山陽にとっては聞き覚えのあるもので、弾かれたようにドアのあった場所へと向けた眼には、その声から予想出来る通りの人物が足を振り上げた姿勢のままで立っていた。
蛍光灯の白い光を反射する、怜悧な当人の印象そのものの硝子のレンズ。
このような暴挙を成したとは考えられない、髪の毛一筋たりとも乱れの無い立ち姿。纏うのは山陽と同じ濃緑色、その歴史は浅いとはいえ、鉄道としては間違いなく重鎮の位置に在るだろう名前を持つ路線。
「きゅ、九州……?」
己にとっては二人目の直通相手、そして東海道にとっては浅からぬ因縁を持つかつての姉妹特急。非常に有能なのは事実だが、少々、いやかなりアクの強い人物である事は確かであり、対応に苦労していたのも事実だったのだけれど。
「少々足蹴にした程度で壊れる扉などと、程度が知れるぞ西日本」
薄い唇を僅かに吊り上げ、笑みの形を作る表情を浮かべながらもその硝子越しの眼差しはちっとも笑っていない九州に、思わずごくり、と息を飲み込む。付き合いも決して短いとは言えなくなってきた間柄だが、これまで山陽に見せていた九州など表層にしか過ぎなかったと言わんばかりの恐らくは『本気』の彼を目の前にして、ぴりぴりと肌が粟立ち、脳内の警告音が更に強くなる。
今にも逃げ出したいのが本音だが、この部屋の唯一の脱出口は九州が仁王立ちしているドアがあった場所ひとつきりだ。勿論災害時の緊急脱出用の設備は窓にもあるが、悠長にそんなものを設置していたら間違いなくあの足の餌食になる。
そもそもなんでコイツはこんなに激怒してやがるんだろう、と先日まで繰り広げていた打ち合わせという名の九州つばめ様独壇場を思い返すが、山陽に思い当たる節は無い。最後に別れたその瞬間まで、彼はいつも通りの状態だったはずだ。
それから今現在まで九州を沸騰状態にさせるような要素は皆無に近しかった筈だ。もちろん山陽が関与しない末端で何かあったのならその限りではないが、そもそもこの男はそんな些細な事にはわざわざ関知したりしない。常に周囲を見下している為に、些少な事では目くじらを立てないその懐の大きさは確かに部下としては心酔に足るのだろう。その分同格と認めた輩への風当たりは激しいにもほどがあるので、かつての東海道のトラウマめいた過去も、山陽にしてみれば歪んだ親愛のすれ違いに遠い目をする以外に何が出来ようか。
とりあえず宥めなくては、とへらり、と引き攣りかけた笑みを浮かべ、山陽は九州の側へと歩み寄る。警報は未だに強く鳴り響いたままだが、兎も角アレを落ち着かせない事には此処から出る事すらかなわないのだから仕方ない。
「いやあの、九州?俺になんか用でも……」
「用?何か用か、だと?」
ふ、と九州の切れ長の眼差しが更に細められる。
あ、ヤバ。これ地雷かも、と山陽が危惧を覚えるのとほぼ同時に、長い足がしなって山陽の傍らにあった年季の入ったソファの背を思い切り蹴り飛ばした。
どごっ、としてはいけないような鈍い音と共に床を転がって長い寿命に終止符を打ったソファの成れの果てにぞっとするものを覚えながら、ぎぎぎ、と軋むような音を立ててごく近くなった九州の顔を覗きこめば、色の無い視線が射殺すような強さで己を見据えている。薄く開かれた唇が僅かにわなないて、九州の怒号のような声が部屋中に響いた。
「貴様の胸に聞け、西日本!!……私の可愛い妹に手を出しておいて、尚且つ甲斐性無しの分際で嫁に貰おうとは笑止千万!」
「――へ?」
誰が何?九州の、妹?嫁って誰を?
状況が全く理解できずに呆然とする山陽の様子に更に苛立ちを覚えたが如くゆらり、と一旦距離を取ると、九州は少しずれた眼鏡を押し上げる。常に唇に浮かべていた薄笑いすら消えたその表情は、彼が本気である事だけは確実に知らしめてはいたけれど。
「ふん、白を切るとはいい度胸だ。何、あれを諦めるというなら死なない程度に加減はしてやろう」
私は度量の広い男だからな、ととんとんと床を軽く蹴る動作ですら、これからの惨劇を予想させて余りあった。
どうにか誤解を解いて九州を宥めなければ、と冷や汗が背中を滝のように流れ落ちる感覚を味わいながら、山陽はひたすらに記憶の糸を辿り九州の言葉を噛み砕こうと視線を彷徨わせる。
妹って事は身内なんだよな、でもコイツにそんな身内いたっけ。そもそも女の子とのお付き合いも最近は御無沙汰だったし、このタイミングで思い当たるような相手は東海道しか……って、待て。そういや東海道と九州って昔姉妹特急だったんだよな――え?てことは?
じゃあ何か?九州がこんだけ激怒してんのって、俺と東海道が付き合ってるから?嫁云々ってのは良くわからないけれど、其処がポイントならば怒りの内容を認めざるを得ない。山陽の中に東海道と別れる、という選択肢が無い以上、この激怒した九州を相手に戦う以外に選択肢は無いわけだけれど。
視界には、吹っ飛んだドアだったものと強制的に寿命を迎えさせられたソファの姿。
ヤバい。これ本格的にヤバい不味い殺される!!
乱立した死亡フラグを目の前に、冷え切った敵を見るかのような眼差しをした九州の不吉な足音が響く。
つーかどんだけアンタ東海道が好きなんだよ、と歪んではいるが確かに相手を想うが故の怒りを前に、山陽は絶望的な戦いを覚悟してぐっと奥歯を噛み締めた。
2009.09.15.
車掌さんとかパーサーさんとか駅員さんとか、女性職員はわたわたする男性諸氏を置いてきぼりに絶対上官と仲良くなってると思うんだ、きっと。
そして上官大好きなのは在来線だけじゃないよね、職員もだよね絶対。
満を持して過保護な姉・九州様の登場ですよ。九州様は絶対足技が華麗だと信じて止まない。はとに知られないように何人葬ってきたかは聞かない方が無難そうです。