猟奇的な彼女


12.

 季節は既に夏を通り越し、秋の足音すら聞こえ始めている。
 その事実を肌で感じる事で、あの怒涛のような狂乱の日から既に一ヶ月近くが経過しようとしている現実を否応なしに突き付けられたようで、東海道本線の名を持つ青年は深く重苦しく吐息を零した。

 視線の先には、濃緑色の制服に身を包んだ女性がひとり。
 ……己のたったひとりの兄は、ひと月の時間を経て未だ『姉』のままだった。



 最初は直ぐに元に戻るだろう、と楽観的に構えていた自分たちを嘲笑うように、兄である東海道新幹線の性別が戻る事は無く。3日が過ぎて危惧を覚え、1週間が経過して焦燥を隠せず、そしてひと月が過ぎるに至ってはもはや達観する以外に何が出来ようか。
 そもそも、当人である兄がこの事態をそう深刻なものと捉えていないのがいけない。兄の自覚など今さらどうこう言っても始まらないが、せめて性別が変わった事で周囲に与える影響くらいは理解しても罰は当たらないだろうに。
「……いや、それはあいつらも悪いな」
 兄の変質が業務上まで波及しない以上、その事実に対して影響を受けるのは兄と直接仕事をする高速鉄道の面々と、直属の部下である東海道をはじめとするJR東海所属の在来線たちだ。いつまでも隠しておけるものでもない、と兄が彼らに事実を明かす事を決意したのは、お盆を目の前にした鉄道にとって最も忙しい部類に入るだろう時期が訪れる直前のことだった。


 突然の上官からの招集に当惑を隠しきれず、けれどそれを不満に思うような輩がこの面子の中に居るはずもなく。常のようにずらりと直立不動の姿勢で一列に並び上官の入室を待つ様子は、恐らくはJR各社の中でも異彩を放つ光景のような気がする。九州辺りはまた別かも知れないが、東海道も兄と同じく出来ればあの癖の強い男に会いたいとは思わないので詳しい事実は知らないままだ。或いは山陽上官ならば知っているかも知れないが、かつての『つばめ』、今は九州の名を持つ男と会った翌日は何処か遠くを見る憔悴した瞳をしていたので、さすがに傷をえぐるような真似は出来なかったとも言う。
 そんなことをぼんやりと考えていたのも、今思えば現実逃避の一環だったのだろう。そう時を経ずして廊下から聞こえる規則正しい足音、次いでがちゃりとドアが開く音を認識するとほぼ同時に、もはや条件反射の如く皆の背筋がぴしりと伸びる。
「すまない、呼び立てておいて遅れた」
 はきはきとした口調で簡潔に詫びを入れながら室内に足を踏み入れたのは、この数日間の東海道の懊悩の象徴でもあった、この場の主。今は姉としか呼びようが無い兄の姿だった。
 間に合わせの黒のスーツではなく仕立て上がったばかりの真新しい濃緑色の制服に身を包み、居並ぶ面々の前に立った見慣れない上官の姿に、最初から当事者だった自分以外の面々は目を見開く。ああ、これで此処でもあんな状態に陥ったら俺もどっかに逃げたい、と呆然と見守るしかなかった高速鉄道執務室での一幕を脳裏に過らせ、覚悟を決めて拳を握り締めて前を向いた。
 常の定位置に立ち、ぐるりと居並ぶ部下たちを見据えて、頭一つ分小さくなってしまった肉親兼上司は瞬きをひとつ。恐らくは今後浴びせられるだろう疑問の矢に応えようと身構えているのすら分かってしまうのは兄弟だからだろうか、それとも自分が兄に向ける心配故だろうか。
 ぐっと顎を引き、こればかりは変わらない真っ直ぐな眼差しを自分を含む部下たちに向けて口を開いた。
「今回の招集の要件だが、まあ、見ての通りだ。こうなった原因も元に戻る兆しも無い事もあって、先におまえたちに知らせておくことにした」
 当分は慣れないと思うが、と苦笑する兄の姿に、それまで上官を凝視していた同僚たちの視線が揃って東海道へと向けられる。なんで黙っていた、と言わんばかりのその無言の威圧に後退りしたい衝動に駆られながらも、兄の前だというなけなしの矜持でぐっと踏み止まる。仕方ないだろう、こんなことそうそう口に出来るわけがない。
 天然記念物的に鈍い当人はそんな部下たちの無言のやりとりには勿論気づく様子も無く、皆の視線につられるように東海道へと視線を向ける。そこには何の含みも無く単純に視線の先を追ってみた透明な疑問符だけが張り付いていて、皆の視線を集める形になってしまった東海道は、思わず落としかけた溜息をぐっと喉の奥に飲み込んだ。
 そんな非常に居心地の悪い数秒間の沈黙の後に、張本人である兄は何か固いものでも無理矢理飲み込まされたような表情をしている弟とその弟を何処か責めるような目で見つめている部下、という構図に細い首をことりと傾げた。
「その……何か言いたい事があるのなら、私に言っていいんだ、ぞ?」
 見た目の性別が変わったところで東海道新幹線以外の何者でもない存在は、部下たちの弟に向ける視線の意味を此処に来て尚勘違いしている。
 どんな批判でも受け入れる、と悲壮な覚悟を抱えてぴん、と伸びた背筋は立派だし、上司として身内という欲目を差し引いても好ましい。……だが、問題はそんなところにあるわけではない。
 最後の疑問符を言い終わるか終わらないかのうちに、己に向けられていた視線が引き剥がされるのを感じる。それまでだって直立不動だった姿勢を更に正し、揃って背筋を伸ばし手を後ろで組み、躊躇い無く常と変らぬ名称で兄を呼ぶ。
「YES,上官!」(×11)
 ――そうだ、この別名・東海道上官親衛隊な連中が、兄さんが姉さんになったくらいで今さらその忠誠心に罅を入れるような柔な根性の持ち主なものか!
 自棄を起こして机を蹴り倒したい衝動を堪える東海道をひとり置き去りに、口々に『上官が上官である事実に変わりはありません!』だの『我々にとっての上官は貴方だけです!』だのと、想像通りの言葉を口々に告げる在来線一同の態度は兄にとっても嬉しいものだったのだろう、ふわり、と緩む表情はひどく無防備で、それ故に更に連中の熱を上げた。

 既に己の事など忘れているんじゃないか、という同僚たちから解放された事に安堵していた己は今思えば迂闊にもほどがあった、と東海道本線は過去を振り返る。


 そうして有耶無耶のままに東海道上官の性別が変わったという事実は彼らの中で浸透し、かといってそもそもが現人神の如く上官を敬愛していた連中の扱いが劇的に変化するわけでもなく。
 そんな連中に囲まれていたものだから、あの鈍い兄が女性である事によって起こる様々な齟齬を理解できるはずが無い。有象無象の危険の芽を事前に摘み取ったのが何回目かなどと既に数える事は放棄して久しいが、それが疲れないと言ったら嘘になる。

 それにある意味現在の東海道にとっての敵とは、何も外部にだけあるわけでもない。

 ひとりホームに立って何かの確認作業をしていた兄の元に駆け寄る人影。高速鉄道の制服と明るい色の髪から、それが誰であるかなどと確かめるまでもない。己の上司の一人、山陽新幹線だ。
 ごくごく自然な様子で傍らに立つその姿は、今までだって何度も見たことのある光景だった。異なるのは随分と縮んだ兄に視線を合わせる為に僅かに背を折る山陽の仕草と、東海道の記憶よりもずいぶんと近い二人の距離。
 ……あの二人が紆余曲折の末にそういった関係に落ち着いた、という事は、彼らのどちらとも接する事が多い自分には直ぐにわかった。そうでなくてもじれったい、と思っていたのはきっと自分だけではないだろうから、気づいた人間はきっと多いに違いない。そもそもが兄が鈍すぎるのと山陽が臆病すぎるのが原因なのは明白だったので、ある意味この騒動がプラスに働いた数少ない一例だという事も出来たかも知れない。
 だがしかし、それをはいそうですかとただ受け取るには、若干ながら東海道の兄に対しての気持ちの温度が高過ぎた。色恋の熱とは異なるとはいえ、相手を大事に思っているという意味では決して劣らない。
 だからこそ、何かの書類に視線を落として集中していることが遠くからでもわかるような兄の腰にそろりと伸びた山陽の腕と、更に背を屈めて首筋に顔を寄せようとするに至って、東海道はぴくりと眉を跳ね上げる。
「あのヒトは、またっ……!!」
 別に兄と山陽がそういう意味で付き合っていても構わない、と東海道は思っている。そもそも山陽がどれだけ兄を大事に思っているかなんて、これまでの長い付き合いで嫌というほど思い知らされている。
 だがしかし、兄を大事にしてくれると認めるのと、こんな目立つ場所でイチャつかれるのを許容するのとはわけが違う。まったくの別問題だ。
 きりきりと眉を吊り上げて、恋人という肩書きがなければセクハラ以外のなにものでもない所業を止めるべく、在来線とは隔てられた新幹線ホームへと向かおうと東海道は踵を返した。

 だって、早く止めないと大変だ。
 どんなにか弱い女性に見えても、あれは兄さんなんだし!


 そんな東海道本線の心配は的中し、階段へと足をかけた瞬間盛大に響いた『ぼぐぅっ!』と『ばきぃっ!』の中間のような破壊音に、思わず空を仰ぐ。
 恐らくは手にしていたバインダーか何かで思い切り殴られたに違いない西の上司の蹲る様が鮮やかに脳裏に浮かび、もう癖のようになってしまった溜息をひとつ。

 そろそろ兄さんも山陽サンにだけ暴力的なのどーにかなんないかなあ、とひとり呟きながら、恐らくは収拾がつかなくなっているに違いない状況を宥めるべく、東海道は重い足を叱咤して階段を駆け上がった。



2009.09.13.

東海在来一同が性別程度で東海道上官への態度を変えるとでも?否、断じて否!
神様が女神様になったところで大差は無いのです。ジュニア可哀想。
そして相変わらず東海道上官は山陽にだけ猟奇的な仕打ちを躊躇いません。
でも業務中だからこれは山陽が悪いよ、うん。心配してくれるジュニアはいい子!