猟奇的な彼女


11.

「……身重の奥さんと心配性の旦那みたいだよね、アレ」
「秋田、表現はもう少し穏便にしておけ」

 言外に東海道の逆鱗に触れると面倒くさい、という意図を含めて溜息交じりに告げた東北だったが、目の前に広がっている光景にそんな感想を持ってしまった気持ちは分からなくもない。というか、そんな比喩でも投げつけてやらないことにはやっていられない気分になったとして何の罪があろうか。

 結局、昨日は山陽からの『東海道をドクターのところに連れていくから、後はよろしく』という連絡を最後に、二人とも東京駅の高速鉄道の執務室に帰ってくる事はなかった。まあ東海道が逃げ出した状況やら山陽が追いかけていった状況やらから察するにあまり突っ込んだ事を聞けば此方が火傷するだろうことを踏んだ東北は、生来面倒くさいのが嫌いなこともあって二つ返事でそれを了承した。
 どちらにせよ、あの状態の東海道が医者にかかってくれるというのならその方がいい。専門家の診断を経た上で問題が無いのならば、東海道が男性であろうが女性であろうが東北にとっては大差ない。たぶん傍らの秋田に言わせればまた別の答えが返ってくるのだろうが、其処はやはり藪をつついて蛇を出す羽目に陥りかねないのでさらっと見ないふりだ。
 確かにあの二人が抜けた穴は大きいが、一日きりで済むのならば無理も利く。
 東海道と同じほぼルートを走るジュニアをこの部屋から解放してフォローに回し、自身は己の路線を秋田と山形に任せて東海道の分まで書類を肩代わりして処理した東北は、慣れない量のそれに重苦しい痛みを訴える肩に溜息をひとつ。

 そんな慌ただしい一日をこなし漸くそれを昨日へと切り替えた東北と、その補佐として奮闘していた秋田の視線の先には人影がふたつ。
 よろよろと何処かおぼつかない足取りで廊下を蛇行して歩く東海道と、その半歩後を背中に心配しています、と書いて張り付けたような山陽、という非常に甘じょっぱい光景が彼らの目の前で繰り広げられている。
 常よりもふたまわりは小さい東海道のシルエットと、昨日と同じ黒のパンツスーツ姿は彼が未だ彼女のままだという事を東北たちに知らしめるには十分過ぎる。彼の愛用のファイルケースを小脇に抱え、けれども明らかにずっしりと重いだろうそれに振り回されている小さな背中は、確かに不安をそそるのも事実だった。
 だが、何より二人を何とも言えないやさぐれた気分にさせているのはそんな表面的なものではなく。
「ほら、いいから書類ケース貸せよ。重いだろ?」
「っ、自分の荷物くらい自分で持つ!」
 何が原因なのかは考えたくもないが、通常歩行すら困難な状態にプラスして重いファイルケースを抱えた状態を見かねた山陽が手を差し伸べると、東海道は真っ赤な顔をしてケースを両手で抱え込む。壁を背にじりじりと山陽と距離を取ろうとする様子と、微妙に泳いだ視線、更に首まで真っ赤にしたその状況から察するに。

「あれ、絶対食われてるよね東海道」
 ちっ、意外と手が早かったなあのヘタレ。
「……口は慎め、秋田」
 断片でも聞かれたら今日も東海道が使い物にならなくなる。

 互いの言外の台詞を何とはなしに拾い上げ、揃って溜息をひとつ。
 山陽が東海道しか大事ではないのは東海道以外には周知の事実だが、東海道が無自覚に山陽に甘えているのも同じくらいは高速鉄道の面々には共通の認識となっていた。あれで何故当人だけには伝わらないのか、と思えるほどあからさまな態度の違いは、けれども彼らが二人きりで共有するものの余りの多さに埋没してしまっているのか、感情はすれ違いを続けていて。
「山形に東海道が甘やかされてたのもホントだけどさ、それって山陽に対するのと全然違うってどうしてわかんないかなあ」
 外から見れば明らかな友情と恋愛のボーダーラインは、秋田にしてみればずいぶんとじれったく感じられるほどに彼らの中で曖昧になり過ぎていた。身内意識が強過ぎたのも弊害だろうと思うけれど、それにしたって臆病過ぎる。
 まあうまく纏まったなら良かったんじゃない、と肩を竦める秋田に、東北は僅かに目を細める。
「……では、東海道を口説いていたのもわざとか?」
 ならば昨日のあの言動の数々はあの二人を嗾ける為だったのか、と納得を覚えつつ、山陽をひとりで行かせた事で思い切りおどろおどろしい眼差しを向けられた己としては非常にやるせない気持ちに陥りながら東北が問いかければ。
「ん、別に?だって東海道、可愛かったじゃない」
 可愛い子を口説くのは礼儀だって僕、言わなかったっけ?
 くるり、と振り向いた自分こそ美人顔の秋田の、非常にきらきらしい笑顔に東北は思わず斜め下へと視線を反らす。これこそまさに藪蛇というやつだ、と己の問いかけを後悔しながら、せめて目の前の非常にこそばゆくていたたまれない光景だけはどうにかならないものだろうか、と昨日だけで何度落としたかわからない溜息を零した。

 そして目の前でファイルケースを渡す渡さないで揉めていた二人も、どうやら山陽が常になく強引にそれを奪い取って大股で歩き出してしまったことでけりがついたらしい。
 慌ててよろめく足どりでそれを追いかけて行った東海道が転びそうになるのを危なげなく先に歩いていた山陽が受け止め、二言三言ぼそぼそと言葉を交わした後にチャー○ーグリーンのCMよろしく手を繋いで歩き始めるに至って、秋田の笑顔が更に凄みを増している事実は、やはり知らないふりをすべきだろうか。
「おはよう、東海道!」
 すらりとした長身に相応しい足取りで東北の傍らから二人の方へと歩き出した秋田の声に、くるりと振り返った東海道の頬は淡くばら色に染まり、山陽は平静を装っているものの何処か笑み崩れているような印象は拭えない。
 ああこれは本当にそういう決着をしたんだな、と認めざるを得ない光景を目の前に、けれど秋田という男は東北が考えていたよりもずっと上手だったようで。
「ああ、おはよ……っ!?」
 普段通りの響きで告げられた朝の挨拶にほぼ反射のように振り返った東海道は、けれども己も挨拶を返そうとしたところで常と何が異なっているのかに気付いたらしい。繋いでいた手をぱっと離し、淡く色づいている程度だった東海道の頬……というか顔中が真っ赤に染まる。
「ち、違、別にこれはその、山陽が勝手に……!」
 わたわたと言い訳にもならない言葉を必死になって紡ぐ東海道の視線が己に向いた事実ににっこりと綺麗な笑みを浮かべて、秋田はすい、と東海道の顎を取る。
「あ、あきた?」
 長くしなやかな指先に絡めとられて上を向かされた東海道は、疑問符を張り付けて秋田を見上げる。困ったような声色は常の彼よりも高いアルトのそれで、そのやけに頼りない声に秋田はより一層笑みを深くして東海道の見開いた双眸を覗きこむ。
「うん、今日も可愛いね東海道。……山陽に飽きたら、いつでも僕のところに来たらいいからね?」
「……は?」
 にこにこと人畜無害そうな笑みを浮かべて告げられた言葉は東海道の思考回路では理解不能だったらしく、彼だった彼女はことり、と細い首を傾げて間の抜けた声を上げる。性別が多少変わったところで東海道が東海道である事は変わりはないのでこの反応は予想範囲内だったし、その後慌てたように振り解かれた手を取り返し、秋田の目から隠すように動いた山陽の反応も予想範囲内だろう。
「おいコラ秋田ァ!おま、また何しれっと東海道口説いてやがる!」
 べりっ、と音がしそうな勢いで東海道を秋田の手から引き剥がし、それとなく抱き寄せる山陽に昨日の光景が重なる。けれどそれが昨日と決定的に異なるのは、山陽の手が肩に触れた瞬間に大げさなくらいびくり、と跳ねる肩と、けれど拒絶するでもなくその手に促されるままに彼の腕の中に納まっている東海道の反応だった。
 あれは確実に食われてるね、と評した秋田の予測はどうやら正しかったらしい事を知りたくも無いのに知らされた形になった東北は、もはや面倒くさい様々に真面目に取り組む気も失せ、ぎゃーぎゃーと騒ぐ二人の脇をすり抜け、執務室の重厚なドアを開ける。
 窓から差し込む朝日は今日も眩しくて、どうやら走るには良い日のようだ。机上で山を形成している書類が描き出すシルエットは非常にありがたくないが、今日は昨日混乱を招いた上に逃亡した東京以西の二人に頑張ってもらえばいいだろう。

 結局何が起ころうとも自分たちは走らねばならないし、逆にいえば多少の事など自分たちという存在の有り様を変えるほどの事にはならない、という証左のようにも思える現象を前に、東北は改めて自身の手を見つめる。
 己もいつか、東海道のように変質してしまう日が来るのだろうか。
 それともこれは突発的な事故のようなもので、数日後にはいつもの東海道に戻るのだろうか。
 けれどそんな推測もまた意味の無いものだと理解できるが故に、落ちる溜息は今までのそれよりもずっと重苦しいものだった。

 まあ、今はそれよりもすべきことは山のようにあるわけで。
「山陽、秋田!!いい加減にしろ、東海道が困っているだろう」
 低く意識して鋭く飛ばした怒号に、それまでの口論を忘れぴたりと動きを止めた二人は、ばつの悪そうな表情で部屋に入ってくる。ただ一人東海道だけが状況を飲み込めないままきょろきょろと山陽と秋田、東北の顔をかわるがわるに見つめていたが、どうやら揉め事は終わったらしい事は理解したのだろう、あからさまにほっとした表情で東北に向けてはにかんだような微笑みを見せた。
「すまんな、東北。昨日も今も迷惑をかけた」
「……いや」
 普段が普段だけに笑顔を見ることが稀だと言われていた男の、今は女性になったその表情は確かに可愛いと称するのが間違いではないな、とどこかズレた感想を覚えて、東北は今までよりも頭ひとつ分は小さくなった同僚の背をぽん、と叩く。
「おまえが無事ならばそれでいい。……走れるのだろう?」
「っ、勿論だ!!」
 東海道がその常と変わらぬ東北の態度に惜しげもなく笑みを零して喜ぶ様に、山陽と秋田がぎゃあぎゃあと騒いでいたが、東北は構わずくるりと背を向け、己の机へと腰を下ろす。東海道ほどではないが、その上にはもちろん書類は山積みだ。これを片付けねば此処から動くわけにもいかない。

 ――寡黙に書類を片付けるその内心で『俺も上越よろしく明日には仙台に逃げてやる』と心に決めていた事は、とりあえず現状では誰も知らないことだったけれど。



2009.09.11.

東北は東海道の性差で態度は変えないと思うので、お兄ちゃんはそれが嬉しいんだと思うな。逃げたいとはやっぱり考えてたけど(笑)
そしてこまち様はやはり男前です。山陽がしくじったら頂く気満々ですよ!