猟奇的な彼女
10.
願いはいつだってたったひとつ、とても簡単で困難なこと。
ただ、傍に。隣に。他の誰でもない自分が居る未来。
今も昔も変わらないそのささやかで譲れない願いを込めて、閉じた瞼の奥に眠る光は果たしてどちらのものだったろうか。
抱きすくめる腕の強さに眩暈にも似た酩酊感を味わいながら、東海道はこの状況を打破する要素が見つからないことに困惑を覚えていた。
足元から今にもくたくたと倒れそうなくらいに全身から力が抜けているにも関わらず、しっかりと己の胴体へと巻き付いた長くて力強い腕がそれを許さない。背から伝わる体温とかすかな香料混じりの体臭にくらくらと脳髄は麻痺しかけていて、熱を帯びているのが自分でもわかる頬と首筋は真っ赤に染まっているだろう。
どうしたらコイツはこの腕から自分を解放してくれるだろう、と自身の中には答えの無い難問を必死で脳内でこねくり回しながら、東海道はぎゅっと瞼を閉じて外界の情報を遮断しようと必死に足掻く。もはや手足も頭もマトモに働いてくれないのなら、ただ時間が経過するのを待つ以外に取るべき手がないのも事実だったからだ。
「……東海道、」
耳元で囁く声がやけに甘い気がするのは東海道の勝手な思い込みだろうか。こんな状況下にある脳が勘違いをしているだけだ、と言い聞かせようにも、そもそもこの状態を明確に説明する事が不可能なのだから性質が悪い。
逃げ出した東海道と追ってきた山陽、其処にある単純明快な構図が、けれども己の変質によって複雑怪奇なものになり果ててしまっているのだから、辿り着く答えが異なるのも当然なのだと割り切れたら楽だったろうに。
ばくばくと異常に早く強くなってゆく鼓動を己のものだと認識するのすら難しいこの現状に、東海道はもう閉じた瞼を開く事すら出来ない。耳元で囁かれた己の名前、たったそれだけの響きが強固であると信じていた自身を打ち崩す様をまざまざと見せつけられ、もうどんなに見ないふりを続けたところでこの男との関係が以前のままではあり得ないことを認めるより他に無かった。
とうかいどう、と彼が呼ぶ。
その響きに、いつもいつも救われていたような気がする。たった一人彼だけは自分をその名で覚えていてくれるだろうと、ただそれだけが救いだった。それが自分の傲慢であったとしても構わない、いつか彼か自分がその名の意味を失くす時に、けれど独りでなければいいと願った記憶は今も東海道の中では現実に等しくて、だからこそこの腕の温かさは残酷だ。
この腕に縋ってしまったら、手放せなくなることは容易に想像できた。己が弱い存在である事は今さら言い聞かせるまでもない事実だったし、その響きで自分以外の名を呼んで欲しくない我儘はわかっている。だからこそ九州と繋がろうとする彼を必要以上に詰ったりしたのだし、それでも自分と手を携える事は変わらないのだと何度も確かめた。
その度に頑是ない己に苦笑を零しながら、それでもずっと変わらない手のひらの温かさに救われた日々を知るからこそ、それを失う事は恐ろしい。形を変えた事で崩れてしまう何かを恐れながら、それでも彼の何気ない一言、他愛のない仕草にさえ困惑する自身の変質こそが浅ましくて、全てを振り払う力が戻る事を願って、東海道は強く奥歯を噛み締めた。
脳裏を過ぎるのは、山陽がかつて連れ歩いていた女性たちの後姿。
面と向かって紹介された事はないけれど、彼と並んで歩いても遜色の無い彼女らに向けた彼の表情が全てを物語っていたから、鈍い東海道にだって察しはつく。
自分に向けるものとは何もかもが違うその表情に、あの時は何も感じなかったのに、何故今になってこんなにも痛い?
細い腕、薄い胸、険が強いばかりの表情。何一つとして彼女らと共通するものが無い事実を安堵した過去は己の記憶として存在しているのに、今覚えるのは痛みばかりだとは滑稽にもほどがあるだろうに。
けれど、今、彼が呼ぶ名前。己を示す名前のその音は、常よりもずっと深い声色をしている。
優しさと称するには若干の温度が高いそれを、都合のよいように考えてしまうのは果たして己の咎だろうか。それとも彼の罪だろうか。
「……離、せ、山陽!」
「嫌だと言ったら?」
触れた部分から伝わる体温の毒のような甘さにくらくらしながら、小さく呟いた拒否の言葉すらあっさりと弾かれて、東海道は途方に暮れる。ただ逃げられないようにそうしているだけだろうと理性は告げるのに、勝手に暴走する感情がそれ以上の何かを期待して鼓動と体温を跳ねあげている現状は、己にとっても不本意であるのに。
どうしたら事を収められるのだろうかと茹った頭で考えて、考えて、深呼吸をしようとしたその刹那。
「……!!」
山陽の長い指が掬うように頤を絡め取り、思考に没頭しかけていた東海道は苦しくなるほどに上を向かされてようやくその事実に気付く。
やけに真剣な表情、まるで射抜くような視線の強さに思わず見開いた眼。
「さ、んよ……」
「――、」
つられるようにその名を呼ぼうとした唇に、吐息の熱さえ伝わるほどの至近距離で囁かれた音の意味を探す。背後から此方を見据える男に真上に固定された姿勢に首が悲鳴を上げるより先に、重ねられた唇の熱が全てを崩した。言葉にならなかった吐息の中に含んだ全てを絡め取られて、東海道は縋るように山陽の腕をきつく掴む。
制服に皺が寄る、と相変わらず理性は冷たく呟いたけれど、それを顧みる余裕を保てるほど、この身内で渦巻く熱は容易くは無くて。
永遠のような一瞬の後、触れるだけで離れた唇が完全に離れ切る前に。
縋るばかりだった腕を伸ばし、高い襟から覗く首筋を辿るように指先を這わせ、空気の震えだけで続きを強請る東海道の閉じた瞼のその上。
薄い皮膚に含んだ笑いに似た振動と吐息が睫毛を揺らして、その願い通りに告げられた言葉の繰り返しに、薄らと刻んだ笑みは勝利宣言だったのか、或いは敗北への諦観だったか。
どちらでも現実は変わらない、と夢のような現在を刻み込むかのように、東海道は瞼の上に落ちたキスと勘違いを現実に是正する幸福を噛み締めた。
2009.09.08.
思う存分いちゃいちゃさせようと思って書いた。後悔はしていない。
次はまたコメディパートに戻るんだぜ!にょたがこのまま綺麗に終わると思ったら大間違いだ!!(笑)