猟奇的な彼女


1.

 目が覚めると、別世界だった。

 ……なんて状況なら、まだしも正気でいられたかも知れないのに。


 夏の繁忙期を直前に控えたこの時期、毎年恒例のように例外なく東海道は忙しい。そして東海道が忙しい、ということは、同じように互いの架線に乗り入れて走る山陽も忙しい、ということだ。
 むしろ、この時期に忙しくない高速鉄道など存在しない。それ故の『ちょっとお代は弾んでもらうよ』な繁忙期だからして、誰も彼もがばたばたと慌ただしく動いている。
 必然的に己の疲労具合が計れない東海道がスタミナ切れでばったりと倒れる回数も増え、普段なら山形に放り投げてみないふりをするところだが、その山形も地元から東京に戻ってくる日数がめっきりと減っている。
 更に言うならダイヤが密接に関連する東海道と山陽は、共に居る時間が常よりも増えるのも通例だ。
 つまりは、かつて二人きりの高速鉄道だったころと同じように、自分がこの倒れたナマモノの面倒を見なくてはいけない回数が増える、という事実に直結するわけで。

「……またか、またなのかおまえさんは」
 
 山陽の目の前で、濃緑色の制服に身を包んだままの東海道が転がっている。 現在位置は新大阪・第二運転指令所。
 まるで事件現場の死体の如くに倒れ伏した東海道の姿に、山陽は大きな溜息をひとつ落とした。
 なぜ、なぜこの男は自室に戻ってから倒れられないのか。それが無理なら仮眠室、いやこの部屋だってソファの上ならだいぶ違うだろうに。
 付き合いの長さに比例して、数えるのも億劫なぐらいに遭遇する情景にもはや山陽には溜息を落とす以外に何も出来る事はなかった。
 幸いにして運休や遅延を出したわけでも無かった為に、全身濡れ鼠になっているわけでもないのがせめてもの救いか。勝手に雨の中無茶をしてびしょ濡れになるのはいいが、その後担いで帰る自分までびっしょり濡れる羽目になるのだとこの馬鹿は気付いているのかいないのか。
 それでも見捨ててはいけない自分に舌打ちをするのも何回目か数えるのも億劫で、とうの昔にやめてしまった。どうしたって結局自分はコイツに甘い。
「おら、とーかいどー。返事してもしなくても今日は部屋に強制連行だかんな」
 内心これで返事が返ってくれれば楽なのになあ、と思ってかけた言葉に、やはり反応は無い。ふう、と息をひとつ吐き出して、べったりと倒れ伏した同僚をベッドに放り込むべく山陽は腰を屈めて投げ出された腕をぐい、と引いた。

「……?」

 引いた、のだが。

 ずるり、と手袋だけが山陽の手に残り、肝心の中身はべったりと床に逆戻りする。今まで何度もこの状態の東海道を連行していたが、一度として無かった事態に少々困惑しながら、山陽は手の中に残った東海道の白い手袋を見つめた。
 制服の一部として支給される白い正絹のそれは、JR内部でも知る者は少ないが単なる備品ではなく、制服と同じく各人に合わせた完全オーダーメイドの逸品だ。指の長さ、甲の幅、手首の太さ。あらゆる部位に合わせて縫製された手袋は、限りなく素手の感覚に近く、日常業務の妨げになる事は殆どない。
 そしてそれは、裏返せば手首のボタンを外しているわけでもないのにこんなに簡単にすっぽ抜けるようなものでもない、ということを示している。
 この手の中にあるのは、間違いなく東海道の手袋だ。他の高速鉄道ならば既に取り替えているだろう僅かな縫い目の綻びを、小器用に繕ってまだ使っている辺りがアイツらしい。しかしそれも手袋自体の強度を著しく損なうほどではなく、また手首で止めたボタンも未だ健在のまま。
「……とーかいどー?」
 手の中の東海道の手袋をとりあえず制服のポケットに突っ込んで、今度は腕ごと掴んで引き上げてみる。予想していた手ごたえを裏切る軽さと、腰半分ずり落ちたスラックスに脱げかけた革靴。

 いやいやいや、まさか。そんな。

 非現実的な想像がぐるぐると頭の中を勝手に占拠してゆくのを慌ててかすかに残った理性で止めて、山陽はとりあえず意識を無くして軟体動物のようになっている物体を担ぎあげる。これまた覚えているそれよりも明らかに軽く、掴んだ腕も抱えた腰もやけに細い。
 だらだらと伝う汗が冷えて、己の顔が強張ってゆくのが自分でもわかる。
 無言のままにぐったりとした東海道(らしきもの)を抱え上げ、山陽はばん、と指令所のドアを蹴り開けた。

「と、東海道っ!!東海道本線〜っ!!!」

 誰か東海道ジュニアを呼んで来い!!と叫んだ山陽の声だけが、静かな廊下に響き渡る。上官の悲痛な叫びを聞きつけた職員やたまたま此処にいたJR西日本所属・神戸線辺りがわけがわからないなりに混乱を更に拡大させてゆく様はいっそ雪だるま式に事態を悪化させているのだが誰も冷静に事態を把握できる存在があるわけでもない。

 そんな地上の喧騒を知ってか知らずか。
 窓から差し込む陽光だけが、今年の猛暑を約束して輝いていた。



2008.08.09.

流行りのにょたに手を出してみた。
しかもカオスをまき散らしながらまだ続くよ!