無音の言葉
普段は言えない言葉がある。
自分は意地っ張りで、あいつはすぐに茶化して。
相手の言いたい事なんてちゃんと分かっているのに、それでも自分の中の何かが邪魔して言葉は音になってはくれない。
それは長すぎる共に歩んだ時間の所為だったり。
口にしたら壊れてしまいそうな相手への感情の所為だったり。
言い訳でしかないとしても、隣に当たり前のようにあいつが居ることが東海道の日常だった。
そこにあることがうっとおしいと思った事もあった。そばにいることが有難いと思ったことはもっとたくさんあった。
けれども、普段はそういった感情すら意識はしない。それくらいにあいつの存在は自分にとって当たり前で、ただなんの気負いもなくあるべきもので、そのように自分たちは互いを認め合って年月を重ねてきた。
だからこそ、言葉にするのはとても難しい。
他の人間には多少の矜持や理屈が邪魔をして言い辛くとも、必要ならば告げられる種類の言葉があいつにだけは告げられない。
その手を取る事はできても、その言葉を告げることだけが、どうしても。
「……もう、眠ったか――山陽」
「………」
既に時計の針は日付変更線を越えて、カーテンの向こうの街の明かりさえ少なくなる時間だ。
こんな時間に共に居ることも、長い付き合いの中ではもう珍しくもなんともない日常の一部になっている。
ただ、傍に居る。
互いに相手に何もしない。言葉さえ何も交わさない。
触れる温もりに、声に満ちる心に、溢れそうな何かに突き動かされるように壊れてしまうものが怖くて、ただ空間だけを共有する不可思議な時間は、けれどもひどく居心地が良かった。
そして、自分たちは確かにあるはずの何かに向き合うことをせずに、もう長いことこうして過ごしてきたのだ。目を閉じて、耳を塞いで、伸ばしかけた手を己の腕で戒めて。
「山陽」
名を呼ぶ声に返事は無い。
本当に眠っているのか、それとも返事を返すつもりがないのか。
どちらでもいい、と東海道は乾いた喉を湿らすように唾を飲み込んだ。震える指先に気付かれなければいいと、この早鐘のように鳴る鼓動に気づかれなければいいと願いながら、それでももうこの言えないままの言葉を留めておくことはひどく困難なように思えたから。
「山陽、……聞いていなければそれでいい。聞いていても忘れてくれて構わない」
そっと手を伸ばして山陽の頬を辿る。
同じベッドに寝ることなど珍しくもないのに、触れる場所がないように眠る歪な自分たちを打ち壊す言葉を、東海道は決死の覚悟で唇に乗せた。
「……――――、」
囁くようなその言葉が終わるか終らないかのうちに、山陽の頬に触れていた東海道の指先が絡めとられる。驚きのあまりに声を上げかけた唇を柔らかい何かで塞がれ、その行為に付ける名前を思い出して更に驚きを重ねた。
行為の意味を問うように、向けた視線のその先。
見た事のないような深い色を湛えた山陽の瞳が、東海道のそれをとらえている。静かに過ぎるそれに息を飲み込むと、シーツの上に置いたままだった左手を山陽の手が捉え、きつく握り締められて息が止まる。
引き寄せる力に、抗う理由は無かった。
耳元に囁かれた言葉に、少しの不信も溶けて消えた。
言えない言葉。どうしても形にできなかった言葉。
同じように付ける名前を見つけられなかった自分たちの関連性。
焦れるように失う奈落と変質する絶望を恐れていたのは、自分だけではなかったのだと、山陽が告げた言葉ひとつで理解できた。
ただ、ひとこと。それだけが欲しかったのだと、再び重ねた唇が教えてくれる。触れた温もりはかつて恐れたほどには自分たちの間の何かを壊す事はせず、ただ漠然と横たわっていた感情に色を、名前を与えてゆく行為なのだと知った。
濡れた唇が紡ぐ言葉を、互いに欲していながら告げられなかった言葉を、もう惜しむことはしないだろう。
明日からはほんの少しだけ変わるだろう互いの関係に唇を綻ばせ、東海道は強請るように山陽に握られたままの左手を強く握り返した。
2008.08.25.
拍手小噺再録。