ホリデイ
あって無いようなもの。マトモに取れた試しのないもの。
むしろ東海道にとっては無くてもさほど問題ないもの。
けれども、そう告げた時の山陽の何とも言えない悲しそうな、それでいて怒りを堪えているかのような表情に口を噤むより他になかった。
古い記憶。まだ彼と二人きりで走っていた頃の記憶だ。
そんな過去の記憶の頃よりは高速鉄道も人員が増えた事もあって、週に一回の休日はカレンダー通り確実に訪れるようになった。
本来は週休二日が規定なのだけれど、常に東京詰めになっている為に滞りがちな東海統括としての業務を加えると土曜日はほぼ潰れると言っていい。別にそのまま日曜日だって働いたところでどうという事はないのだけれど(何せ仕事というのは片づけても片付けてもどこからともなく湧いて出てくるものだ)、山陽に何かを吹き込まれたらしい弟や東海在来の誰かしらが休むように告げてくるのが常だった。
彼らの言う事を無視して仕事を続けることだって出来たけれど、それにはあの彼らの悲痛な願いを込めた眼差しは痛すぎた。殊更に新幹線と在来線の違いを強調し高い自尊心とそこに付随する責任を忘れない東海道だが、だからこそ己が庇護すべき彼らにああも悲しい目をされると逆らえない。それが此方を案じてのものだと知るが故に尚更に無下にも出来なくて、結局終わらない仕事を無理矢理切り捨てて宿舎に帰るのが常だった。
そして今夜もその通例に漏れず、じっと此方を見つめる武豊の無言の威圧と来週の為にも今夜はゆっくり休みましょう、と告げる高山の提案に折れる形で執務室を後にし、宿舎までのそう遠くない道のりをぽくぽくと歩いている。
遠くないも何も同じビル内の別フロアに移動するだけだからして、照明が落ちた廊下を歩くのも迷いは無い。昔は少し離れた場所に宿舎はあったのだが、本社ビル建設時に上層部の鶴の一声で取り壊しと移転が決まってしまった。確かに木造平屋建てな上に個室も満足に無いので何処の合宿所か、という風情だったが、アレはアレで大家族みたいで楽しくもあったのに。
はあ、と溜息をひとつ落として、誰が待っているわけでもない自室のドアの鍵を開けて、ドアノブを掴んだ。ひやりとした金属の感触が少し厭わしく、自然寄った眉根に気付かないふりをしてそれを押し開いた。
滅多に使わない部屋は、やはり少し空気が淀んでいるように思う。それは錯覚かも知れなかったし事実かも知れない。ゆっくりと歩み寄ったソファに腰を下ろして長い吐息を吐き出せば、忘れていた疲労がゆっくりと背筋に滲んでくる。
理性は、さっさと上着をハンガーに掛けてシャワーでも浴びて寝てしまえと告げている。けれども抗い難い睡魔の誘惑は直ぐそこまで来ていて、ソファの柔らかさに別に此処でもいいんじゃないか、と感情が囁きかけているのを撥ね退け切れないのも事実だった。
ふわ、とこぼれた欠伸は就業中なら決して見せる事のない側面。
『東海道新幹線』の目指す完璧の中で、要らないものとされた、けれども何処までも自分でしかない一面がこの部屋では浮かび上がる。
そう、それはまるで。
彼と二人で居る時のように。
つきり、と甘痒いような痛みが胸を過る。
気のせいだ、と何度も見ないふりをしてきた感情。もやもやとわだかまって時に天邪鬼な振舞いを余儀なくされた想い。
抱えたままでは苦しく切ないそれを、けれども彼に告げる事はどうしても出来なかった。ただでさえ頼りきりの彼にこれ以上甘えてしまったら、自分が自分であることすら忘れてしまう気がしたからだ。
きっと彼は際限なく東海道を甘やかすだろうけれど、その甘さが刃と同等なのだと知っている。東海道が高速鉄道として彼と共に競うように肩を並べて走ってきた時間が築き上げたもの、それを踏襲することでしか彼との未来は有り得ない。
自分がこういった感情に器用でない事を知るが故に、東海道に出来た事は表層に出てこないように蓋をしてしまうことだけだった。それが正しいか正しくないのかなど、二の次にして。
ぼうっとそんな事を考えながら天井を見つめる東海道の直ぐ傍で、テーブルの上の小さな時計がかちかちと時を刻む音だけが室内に響いている。そういれば照明を点けるのも忘れていた、と気づいたけれど、今更全てが億劫で動く気にもなれない。
玄関の鍵を開けた時点で最低限のルームランプは点灯しているので、何も見えないほどではないことも、自堕落な考えの後押しをしている。また眠りに落ちるのに支障がない程度の薄闇だという事が、この場合は不幸なのか好都合なのか。
とりとめのない考えとも呼べない思考の羅列を過らせながら、徐々に仲良くなってゆく瞼に抗う事を諦めかけた、その時だった。
ピリリリ……
味もそっけもない電子音に、東海道ははっと身を起してポケットを探った。ほどなく取り出した携帯のサブ液晶画面には、着信の文字が明滅する。手早く開いて通話ボタンを押し、これから部屋を出る事も覚悟して身を起こしたのだが。
『あ、とーかいどー?今ドコよ、まだ起きてる?』
「……山陽」
気が抜けた軽い調子の声に、肩の力が一気に抜けてずるずるとソファの背もたれへと身体が沈み込んだ。どうやら緊急事態ということは無いらしい、と判断し、先ほどまでの心地よいまどろみを邪魔された事も相俟って少し刺々しい声で彼の問いに応じる。
「今夜は俺は名古屋の宿舎だ、東京には月曜の朝に戻る。かろうじて起きてはいるが……何か用事でもあるのか?」
『うーん、用事というかなんというか』
ピンポーン。
間の抜けたインターフォンの音が響く。
というより、この部屋のインターフォンが利用されたこと自体これが初めてなのではなかろうか。現実についてゆけずに目を見開いて硬直した東海道だったが、直ぐにもう一度鳴った同じ音に慌てて玄関ドアに駆け寄った。
もどかしい手つきでチェーンを外し、軽い金属音と共にロックを解除する。
そうして開けたドアの向こう側では、コンビニの袋を携えた山陽がにっかり、としか表現のしようのない悪戯小僧のような表情で立っている。
「……馬鹿か、貴様」
ようやくのことでその一言だけを零せば、大柄な体格の割にしなやかな身のこなしで山陽が室内に入り込んでくる。
それを嫌だとも無礼だとも思わなかった時点で勝負は付いている気がしたが、曖昧な領域に差し掛かったままの針は動いたわけではないと信じたい。
けれどもそんな悪あがきも、振り向かずに告げられた言葉に砕け散るより他に無かった。
「あ、ひっでえ!オマエに会いたいなー、と思った山陽サンの心は全無視?!」
「な……!?」
恥ずかしい奴め、と流してしまえれば本当は良かったのだろうけれど、先ほどまでぐるぐると彼の事を考えていた頭はそんな反応を導き出してはくれず、ただうろたえるより他に東海道が出来る事は無かった。
此方を振り返り、一歩、二歩と距離を詰める男の顔など見られる筈もない。
俯いたまま相手の出方を見ることしか考え付かなかった東海道の頬に、そっと大きな暖かい手のひらが寄せられる。
「……ただ会いたかったんだよ。理由はそんだけ」
会いたい気持ちの理由を話したら、一晩は軽くかかるから。
それでもいいなら聞いていいよ、と告げる吐息にさえ震えるのは、此処が己のテリトリーだからなのか。彼の傍らだからなのか。
頬に触れたままそれ以上の接触をする事無く離れてゆこうとする彼の指先を己の冷たいそれを絡めることで引きとめて、東海道はそろそろと顔を上げた。
優しい色の眼差し。分かりにくい優しさで、けれども他の誰にも出来ないくらい巧妙に自分を甘やかしてきたそれに抗うのは、もうどうにも難しい事のように思われた。
了承の印にひとつ頷いた自分の額に落ちた柔らかい感触と、これ以上ないくらいに幸せそうな笑顔に思わず視線がまた床に落ちる。こうなったら、もう顔さえ上げられない。
たった一日の休日さえ、オマエの空白が許せなかったと言ったら信じるか?
低く囁かれた睦言のような問いかけが、甘くそしてどこか切なく響いて。
東海道は力の入らない指先で、彼の袖をそっと掴む事で無言の同意を告げた。
2008.09.12.
正直コレ東海道視点より山陽視点の方が良かったかも知れない。
一応時系列としてはエアーポケットの続きで。