ひよこ当番
JR東日本・在来線にペンギン当番が存在するように、当然JR東海・在来線にだってひよこ当番が存在する。いや、した、と言った方が正しいのか。
なにせ、当番といっても大小のひよこが二匹。
JR東海の管轄下から出ることがあるわけでもなく、お使いができるような機能も無い。何かしでかすとしても精々が各路線のポケットに潜りこんで在来線を行ったり来たりする程度が関の山。
TOICAエリアを走る在来路線で適当に割り振った当番は今となってはほぼ機能しておらず、その日東海本社に戻った者かポケットに潜りこまれた者が面倒を見る、というのが通例となっていた。
なっていた、のだが。
「……それで、なぜ私なんだ」
「仕方ないだろ、みんなこっちに戻ってこれないって言うんだから」
ばたばたと部屋中を駆け回って書類を集めている弟はこちらを一瞥もせずにそう告げて、手の中のひよこたちにハの字に下がる兄の眉など気にもとめてはくれなかった。
手の中の小さな生き物の頼りない柔らかさに、東海道は途方に暮れたように視線を彷徨わせる。それは普段の傲岸不遜なまでの上官としての顔とは異なり、弟である東海道本線でも滅多に見られないほど無防備なものだった。
無論、兄だって己の立場は他の誰よりも理解している。
弟である自分の前、しかも他者が存在しない現在でなれけばこんな顔は晒さないだろう。首都圏や関西圏では己の矜持が許さず、東海ならばそれに加えて在来線からの信頼と崇敬を裏切らないために、どんなに苦しくても『東海道新幹線』である己の形を崩す事はない。
実際は己の兄は喜怒哀楽は相当激しいし、冷徹に振舞ってはいても情に厚い。
その証拠に、東海の在来線がやらかした失態は例外なく兄が上官として当人の負担にならぬよう、今後こんなことは起こらぬように後始末に奔走している事を知っている。無論当事者を厳しく叱責はするが、それは二度と繰り返すなという訓戒であり、処罰という意味合いは無い。……まあ、多少潔癖に過ぎて説教が長くなるのはご愛敬だ。
キャビネットのファイルをひっくり返して京浜東北に頼まれた資料をようやく発見したジュニアは、それを手早く茶封筒に突っ込んで小脇に抱える。
本来ならば昼のうちに中央本線に持って行ってもらうはずの資料だったが、先日の会議の資料として兄が持ち出したらしく、未だ返却されていなかった。無論兄が返却を忘れていたわけではなく、単にタイミングが合わなかっただけの話だろう。けれども、例え資料を探すという名目にしてもまさか在来線が上官室に無断で入るわけにもいかない。
幸いにして兄は今夜半には名古屋に戻ると聞いたので、本日最終で東京に向かうジュニアにお鉢が回ってきたのである。
そして本来ならばひよこ当番だったジュニアは、東京に向かわねばならない己の代わりに黄色い生き物二匹を兄の手に託したわけで。
「じゃ、この書類貰ってくから。明後日には戻るけど、もう資料室に戻していいんだよな?」
「あ、ああ……それは構わないが。いや、それよりもこいつらを俺にどうしろと……!」
黄色い毛玉を手に乗せたまま、あわあわと縋るような眼差しを向けてくる。一人称が『俺』になっている辺りで、だいぶ外面が剥がれかかっているのがわかったが、今回ばかりは他に選択肢はないのだ。
自分だって、とんでもないところが超絶不器用な兄に小動物を任せるのは少々心もとなくはあるが、一晩くらいならば滅多な事もあるまい。
「もうエサはやったからあとは適当で平気だって。明日の朝は出る前に本社の窓口にでも預けてくれれば」
ちらり、と時計に目をやれば、東京への最終が出る時間までもう間もない。兄の『のぞみ』を使えばもう少し余裕が出るのだが、残念ながら今夜は途中駅で別件の用事があったりするので、自分の足で向かわねばならない。
「東海道!」
「じゃ、おやすみ兄貴!」
ひよこよろしくな!と叫んで、兄の引き留める声も空しく弟はさっさと名古屋の在来線ホームへと駆け出して行った。追いかけようにもぴるぴると手の中で動くひよこ二匹を放り出すわけにもいかず、あわあわと自室の窓やら壁やら天井やらに視線を彷徨わせた。
「……ど、どうしたら……」
途方に暮れて呟いた声に返る言葉があるはずもなく。
頼りない小さな生き物の温かさに、自然いつもは伸びている背筋が丸くなる。ふらふらとした足取りでソファに向かい、手の中の生き物を落とさないようにそっと腰を下ろす。震える手も膝へと下ろし、そっとひよこたちを開放すれば彼らはちょこちょこと確かめるように東海道の膝を右往左往すると、躊躇いなく上着のポケットに一羽づつ潜り込んだ。
「わあ!?」
上着のポケットがもぞもぞと動く感触に膝を跳ね上げてしまい、慌ててポケットの上から様子を窺うが特にこれと言って驚いた様子はない。一番驚いているのは東海道なのだが、それをひよこたちも東海道自身も気づけるはずもない。
あからさまにほっとした表情で両手を下ろすと、途端に今まで気を張っていた肩ががくりと落ちる。
そもそも、自分に生き物の世話など出来る筈がないことはあいつが一番良く知っているだろうに、あの弟は時々無茶な要求をしてくる事がある。
兄としての威厳と高速鉄道としての矜持をかけて努力はしているが、今回ばかりは荷が重い。先ほどから頭の中には怪我をしたらどうすればいいか、病気だったらどこに連絡すればいいのか、それ以前にひよこの世話とは何をすればいいのだろうかとぐるぐるとネガティヴな思考が巡っている。
……どう考えても一晩預かるだけの人間が心配するような事ではないが、その辺りが東海道新幹線が東海道新幹線たる所以かも知れない。
「東海道め……覚えてろよ」
低く唸るような呟きを察知したのか、はたまた偶然か。
疲れ切ったようにソファに背を預ける東海道の濃緑色の上着のポケットから、揃って首を出したひよこたちがぴい、と一声慰めるように小さく鳴いた。
2008.07.06.
ひよこと東海道兄弟。そのうち続編で山陽×東海道書きたいな!
書きました。続きは「王様のポケット」で。