夜に咲く花の色
じわりと夜にも熱が残るようになる頃には、東海道本線の沿線でも数々の花火が打ち上げられる。
数多くの観光地を抱えるが故に、むしろ7、8月は毎週末に必ず何処かで夜空を染め上げる火花を見る事ができるといっても過言ではない。その度に数多くの乗客を西へ東へと運び、時には臨時便を出すジュニアにとって、花火の音を、色を見ることによって夏は始まるのだと既に刷り込まれてしまっている。
毎年その先駆けのように、7月の第一週の週末に開催されている花火大会。梅雨との境目にあるが故に天候の不安を抱えてはいたが、それこそがいつも本格的な夏という季節を教えてくれる目安だった。
夜空の闇を染め上げる、色鮮やかな打ち上げ花火。
乗客を安全に確実に運ぶ事に集中しているジュニアは、きちんと見た事は一度もないけれど、それでも走る最中に横目で眺めるそれを美しいとは思っていた。
海を渡る橋の上から見える花火はとても鮮やかで、己が運ぶ多くの乗客と同じように、大きな音が身体を震わせるたびに上を見上げる。
一瞬で消えてしまう、けれどそれ故に美しい夏の風物詩。
下駄の音も軽やかに、色鮮やかな浴衣を翻して行き交う女の子たち。立ち並ぶだけで心が躍るようなテキ屋の屋台。人混みに混ざるどこか浮ついた雰囲気は、当事者ではないジュニアの心をも浮き立たせる。
今年は多少湿っぽくはあったが心配していた雨も無く、籠る熱気すらも華やいだ雰囲気を盛り上げるだけで、人々の期待に水を差す事態にはならなかったようだ。
これから毎週末に各地で繰り返される風景、己の中の年中行事に数えられるようになって久しいそれを確かめるように、最寄駅で停車したジュニアは深く息を吐き出して空を見上げる。
「……そういえば」
随分とセピアがかかったような古い記憶の中に、今日に良く似た断片が眠っていることに気づく。未だ自分が東海道線と呼ばれる前のこと、同じように兄が東海道新幹線と呼ばれる前の出来事だ。
小さな手が、更に小さな手を引く。
汗ばんだそれは、けれども記憶の中の自分にとっては世界のすべてにも等しい手で、心細くて泣きそうなのを必死で堪えていた。
この手を放されたら、自分が自分でなくなってしまう気がしていた。世界の中に溶けて消えてしまって、もう二度と形を保てないような、そんな漠然とした恐怖の芽をあの小さな、けれども自分にとっては何よりも大きな手だけが払ってくれていた。
周囲の雑踏。打ち上げ花火の音が空気を震わせ、白い頬を色とりどりの光が染め上げていた。口を開けば泣き出しそうで、けれど泣いたら手を引く人を困らせそうで、奥歯をきつく噛み締めた。
無言のままに手を引かれて歩くその間、ただ下駄を履いた足が痛かった事を覚えている。
もう、ずいぶんと古い記憶。
覚えている、と断言さえ出来ないほどにあやふやな、けれどたぶん自分にとって大切な記憶。
一瞬のうちに鮮やかに色を成したそれを飲み込むように息を詰め、ジュニアは進むべきレールの先を見据える。まだ何も終わってはいない。乗客が残らず車両に乗り込み、ドアが安全に閉まるのを確認してそっと足を先へと進めかけた、その瞬間。
「――兄貴」
ほど近くを走る東海道新幹線の架線を、兄の白地にブルーラインの車体が通り過ぎる。夜目にも鮮やかなその色に、思わず呟いた名前はやけに大きく耳に残った。
何時から、素直に兄の言葉を聞けなくなったのだろうか。
何時から、兄に向ける感情がこんなに複雑になってしまったのだろうか。
あの、小さかった兄弟はもう何処にもいない。
自分の背はとうに兄のそれを追い越して、あの日縋った少し汗ばんでいた小さな手のひらは、今は白い正絹の手袋に覆われてしまっている。
年月は否応なしに自分たちの関係を変えてしまって、兄と呼ぶことさえ苦しいと思う日が来るなんて、あの日の小さな弟は思いもしなかった。
寄り添うように走る、東海道本線と東海道新幹線。
物理的な距離は近いはずなのに、年を重ねるたびに離れた心は戻らない。
今日までジュニアが忘れていたように、兄もまたあの夜の記憶を忘れているだろうと思うと、しくりと鈍く心臓が痛みを覚えた。
会いたい。会えない。会いたくない。
矛盾だらけの心のまま、それでも走る先は同じところに繋がっている。
今夜の花火を、通り過ぎた兄は見ただろうか。そんなものに気を奪われる事無くただJRの為に、乗客の為に先を急いだろうか。
それを確かめてみたい、と理由のない衝動にかられながら、ジュニアは数える事も忘れた花火の音に目を細めた。
2008.07.13.
とある夏の夜の東海道兄弟。思い出と現実。
地元の某駅周辺はえらく在来線と新幹線が近いので、至近距離ですれ違うのがトキメキ。
今日は走るジュニア(下り)の中から700系(上り)を見た、ちょっと幸せです。
色褪せない記憶が其処にある。
物覚えは良い方だと自負している東海道新幹線は、己の車体に映り込む花火の色に僅かに目を細めた。
己の停車駅の中間に位置するあの場所では、留まる事は不可能に等しい。一瞬の光景、夜空に広がる色鮮やかな大輪の花火はすれ違うだけできちんと眺めることなど不可能に等しいのだけれど、記憶の奥底に大切にしまい込んだかつての記憶があれを特別なものだと認識する。
きっと弟は覚えていないだろう。兄弟二人きりで出かけた花火の夜、人混みに怯えた弟の手を引いて、己も泣きそうになりながら歩いたことがあった。
自分が居るから平気だと啖呵を切った手前弱音も吐けず、大人たちの人波に先も見えず。行き先もわからなくなりパニックを起こしかけた自分を救ったのは、縋るように己の手をきつく握る弟の小さな手だった。
この手を守らねば、とそれだけに必死で、ひたすらに先を急いだ。今思えば随分と無茶をしたものだと呆れもするが、あの時はもうそうするより他にないと信じ込んでいたのだ。
結論から言えば無事に帰りついたものの、よれよれになった自分たちにもう二度と二人だけでの外出許可は下りなかった。
最初で最後の夏の記憶だ。
過ぎた年月の中で、小さかった弟は自分の背を追い越して大きくなり、自分の背負うものも随分と増えた。
名前が変わり、居場所が変わり。それでも弟が弟であることが変わらなかったことに、どれだけ己が救われたか、あれは気付いているだろうか。
一瞬ですれ違った弟の車体。常よりも多くの乗客を乗せて、己と同じ場所を目指す彼の表情までは、夜の闇に見えなかったけれど。
今夜の花火も綺麗だったと、そう告げることくらいは許されるだろうかと小さく笑って、東海道は未だ続く夜の中を静かに駆け抜けていった。