ガールズ・トークは終わらない


「上官、今夜一緒に飲みに行きませんか?」
「……わたし、がか?」
 珍しくも仕事がさくさくと片付き、定時に帰れるのが確定しった昼下がり。
 にこにこと屈託の無い笑みを浮かべながらそう告げたのは、顔を合わせば話しかけてくれるようになった小柄な車掌の女性だった。
「年末年始の帰省ラッシュもひと段落しましたでしょう?女性有志で新年会をしようか、という話になりまして」
 ですから上官もお時間がありましたら是非、と告げる彼女の言葉に、東海道は少しだけ天井を見上げて本日と翌日のスケジュールを反芻する。
 本日は問題ない。このまま帰れるくらいには余裕がある。明日は、と記憶を辿っても、通常業務以外に会議や視察の予定は組まれておらず、多少アルコールを入れても問題ないだろう。

 原因不明のままにこの身体が性別を違えてから既に半年余り。困惑している男性陣を余所に、女性社員たちとは以前よりも話をする機会が格段に増えた。
 東海道自身の自覚は兎も角として、確かにこの身は女性のそれだ。女性として彼女たちから教えられる事も多く、こうして誘いを受けるのも、実は初めてではない。
ただ、残念ながら東海道の多忙さによりその誘いは9割の確率で断る事になっていたので、その申し訳なさも相俟って、東海道はうっすらと笑みを刷いて、目の前で立ったまま此方の返答を待っている彼女に承諾の返事を返す。
「ああ、問題無い。私でよければ参加させてもらおう」
「わあ、みんな喜びますよ!」
 ぱあ、と笑顔を輝かせる彼女の様子は、とても可愛らしい。自分が参加する事でそれだけ喜んでもらえるのならば、少なくとも迷惑ではないのだろう。
 誰かに受け入れて貰える、というのは酷く幸福な事なのだと、東海道は身を以て知っている。逆に不要と断ぜられる不幸も。
 嬉々として場所と時間を伝える彼女の言葉を、一言一句漏らさないように手元のメモ用紙へと書き付ける。でも定時終業後に皆で集合しますから、正門前に来て頂ければ大丈夫ですよ、と告げる彼女にこくりとひとつ頷いて。
『ああ、そういえば……こんな飲み会は久しく無かったな』
 特急職を拝命してからはつばめと同室だったこともあって足が遠のき、その後高速鉄道になるまではそんな気分にはなれず。上官職を得てからは、その多忙さと気軽に誘ってくれる相手がそもそもおらず、長いこと気軽に飲みに行く相手、というのは山陽と弟に限られた。
 今は高速鉄道の面々とそうした席を設ける事もあるが、それにしてもこんな不特定多数との席、というのは久々だ。
 自覚してしまえば、急に楽しみになってくるのだから現金なものだ。あまり酒は強く無いが、酒の席そのものが嫌いなわけでは決してない。直ぐにふわふわとした陽気な気分と眠気に最後まで意識をきっちり保っていた試しはないけれど、そうやって何かを緩める場面が時には必要なのだと、今の東海道は知っている。
 楽しみだな、と呟いてみて、綻ぶ口元は正直だ。
 では残業などしている場合ではないな、と気分を改め、東海道は軽やかにサインを書き付けるペンを閃かせた。


■ ■ ■



 華やぐ空気と、泡がはじけるみたいなおしゃべりと、美味しい食事と、軽いアルコール。
 今まで遭遇した事がない空気に軽い驚きと、ほんの少しの居心地の悪さを覚えて、東海道は半分ほどが減った梅酒サワーをこくりと一口飲み込む。
 今まで彼女たちのおしゃべりに混ぜて貰っていたのと同じように、ただ時折相槌を打ちながらそれを聞くのは、もちろん楽しい。
 ただ、あくまで業務中の休憩時間だったそれに比べて、飲み会という外部ではその会話の赤裸々具合がレベルが違った。男性だった頃に聞いたら憤死するんだろうなあ、とあの頃よりは多少耐性が付いた自覚がある東海道だが、出来ることは赤面しそうな話題の時にはとりあえずものを口に入れて誤魔化すことくらいだ。
「あ、上官。何か取りましょうか?」
「ん?いや、まだ大丈夫だ」
 先ほどから誰かが新しい料理が運ばれてくる度に声をかけてくれるのをくすぐったい思いで受けながら、あれだけしゃべりつつ酒と料理を消費していく彼女たちのパワフルさに苦笑する。
 逆に東海道自身は食べている時は喋らないし、喋っている時は飲み物すら飲まない性質なので、聞いているだけ、というのは結構気楽でいい。
 薄めとはいえアルコールを入れた頭は何時ものように少しふわふわとしていて、聞こえる会話の内容は右から左へと過ぎ去るとしても、空気そのものは楽しさに満ちている。
 慣れない空気、慣れない会話。けれどそれは決して忌避する種類のものじゃない。またひと口こくりと嚥下した梅酒サワーは、少し甘くてまるでこの場の空気のようだ。
 誰かの恋話を可愛いな、と口元を綻ばせつつ聞き流す東海道は、だから気付く事は出来なかった。
――何時の間にやら話に興じていた彼女たちが、黙ってじいっと己の顔を見入っている、という事実に。
「……ときに上官?」
「ん?」
 問われるままに顔を上げた瞬間、東海道は己に集まっている視線にぎょっとしてグラスを倒しかけてしまう。けれどもそこは彼女たちとて心得たもの、両隣の女性たちが見事な連携でさりげなくその手からグラスを取り上げ、取り皿と箸を遠ざける。
 そうなってしまえば、後はすこしふわふわした気分の何時もよりガードの低い彼女らの愛すべき上官がひとり。
「な、な、なんだ、ろうか……?」
 かつて礼服を作るのだ、と広報部の女性たちの中に放り込まれた時と同じような空気にごくり、と息を飲み込み、思わず後ろに下がろうとした背中に、ひたりと別の女性の手が当てられて息が詰まる。
「私たち、上官のお話も聞きたいなあ、と思いまして」
 にこ、と微笑む彼女たちは相変わらず綺麗で可愛い。が、どこか怖いのはどうしてだ。
 本能よりも理性を重んじる己には珍しい事に、今回ばかりはこの場から逃げ出したい、という本能が勝っているようだ。どきどきと鼓動が早まるのはきっと酒だけの所為じゃない、と気付いてはいても、この場から無事に逃げだす事はもはや不可能に近しい。
「とりあえず、山陽上官との馴れ初めなんか聞きたいなあって思うんですが……どうでしょう?」
 どうもこうも、アレとの出会いなんて公に明らかにされている以上のこともなく、今さら他人に語るようなものじゃない、と叫びかけて、馴れ初め、というのならむしろかの東京駅での脱走劇からの一連の出来事を指すのではないか、と気付き、今度こそ首から上を真っ赤に染める。
「ふぇ、え?!な、なんでそんな事を……!」
 落ち着きなくわたわたと視線を迷わせ、指をせわしなく組み替えて。そうしているうちに、周囲の彼女たちの笑みは更に深くなっており、もはや東海道の自覚は兎も角、間違いなくドツボにハマっている。
「あの噂は結局デマだったんですよねー?その辺りの正確なところも詳しく伺いたいなーって思うんですが!」
「あ、礼服如何でした!?私たちも協力したんですよ!」
 きゃいきゃいと矢継ぎ早に質問を投げかけてくる彼女たちに、東海道はくらり、と僅かな眩暈を覚える。
 予約時間はあと一時間。
 いつの間にか烏龍茶と取り換えられていた梅酒サワーのアルコール分を恋しく思いながら、東海道は問われた内容をすべてブチ撒けるまでその眉をハの字に下げることしか出来そうに無い己に絶望したのだった。


■ ■ ■



 唐突に業務連絡用アドレスに送られてきたメールの内容に、山陽はこきり、と首を僅かに傾げた。
形式に則った業務用メールに見せかけて、言いたいことだけ要約すれば『東海道上官を飲み会にお誘いしました、×時に○○まで迎えに来て下さいね』というものだ。送信アドレスはJR東海の総合連絡用アドレスだが、最後に付いた『東海女性職員一同』というクレジットがそれが私用であることを物語っている。
 自分に何も言わずに飲み会に出席している、という事実に対するほんの少しの不満と、まあ女子会なら安心かな、という安堵が微妙なマーブル模様を描く心を仕舞い込み、山陽はぐるり、と背後の時計を確認する。
 メールに記された時間まではそう長くない。場所はそう遠くはないが、仕事を終わらせる算段はそろそろ必要だろう。
 東海道は基本的に多忙な上に出不精なので、恋人になる前もなってからも専ら彼を連れ出すのは自分と彼の弟の役目だった。
 飲み会の席が嫌いなわけでも、酒が嫌いなわけでもない。
 ただ、翌日に残るようなものを彼の理性が許さず、また彼の立場が気軽な誘いを許さなかった、ただそれだけだ。
 ただアルコールを入れると直ぐに寝てしまうのが困ったものだが、アレは酒癖というよりは普段の疲労が露骨に表に出ているだけな気がする。
 そんな東海道なので、むしろそうして誘いを断ってくれていたのは有難くもあった。あんな無防備な東海道を酒で理性が薄くなった面々の場所に放り込むのは心臓に悪い。本人に自覚が薄い、どこから存在しないのはよく知っているので、必ず既知の誰かがストッパー役として同行するのが常だったのだ。
無理をした自覚も無く限界以上に働こうとする東海道は、誰よりも先に己を騙してしまうのだろう。困ったようなふりをしながら、そうして彼を担いで帰るのは長いこと己の特権だったのだ。昔と違うのはただひとつ。そうして担いで帰る先が、彼の部屋か己の部屋かということだけだ。
 少し悩んだ末に諾の返答を簡潔に返し、山陽は手のひらを無機質な蛍光灯に晒してみる。
「……よく考えなくても、凄い確率だよなあ」

 こうして、彼に触れる大義名分が存在していること。
 そもそも、赤字路線だった己が彼の隣に在ること。
 彼が彼として其処に在り続けていること。

 全ては確率の奇跡の上に成り立っていて、ひとつでも掛け違えたならばこうして飲み会に行った彼を迎えに行く自分は存在していないだろう。
書類を作成していたPCのロックをかけ、電源を落とす。残業ではあるが常よりは早い時間に片付いた仕事の山にこきりとひとつ肩を鳴らして、山陽は告げられた場所へと足を速める。

 きっと今日もその腕と背中を温めるのだろう酔っ払いの高い体温を思い出して、ふと零れる笑みは苦笑というにはあまりに柔らかい。


 その頃迎えに行こうとしている恋人が、馴れ初めから普段の会話、果ては夜のあれこれまで己との赤裸々な全てを語らずにはいられない状況に陥っているなどとは思いもよらず。
 外に出た途端に吹きつけてくる冬の風に、山陽は僅かに肩を竦めたのだった。




2010.01.17.(10年1月大阪版ペーパー再録)