フレグランス
東海道新幹線、という存在を一言で語るのはとても難しい。
彼は職務に忠実且つ有能な、JRグループの屋台骨の一人である。
彼は壊滅的に不器用で天邪鬼な、肩書きの割にどうにも子供っぽい人物である。
彼は自他共に厳しく、一切の妥協を許さない完璧主義者である。
彼は身内にべらぼうに甘く、その全力を以て庇護する事を厭わない懐の大きな人物である。
相反するそれらの人物評は、しかしひとつひとつを確かめるように思い返せば全て間違ってはいない。本人は自分の事を普通のつまらない存在だと思っているようだが、長い付き合いの弟兼部下の目から見ても、相当に複雑怪奇な人物である事は間違いない。
分かりにくい、という事は無い。いっそむしろ分かり易過ぎて心配になるくらい正直な性質な兄である。故に首都圏在来線からは煙たがられ、高速鉄道の中でも誤解を招き、己を含む東海在来には盲目的なまでに慕われる、というわけのわからない状況に陥っている。
実際はどうしようもなく不器用で、本当に仕事しか出来ない困った兄なわけだが、それでもジュニアにとって兄は特別であり、憧れを混ぜた複雑な感情を向ける相手である事は間違いない。
別に兄が仕事以外はダメダメだろうと問題は無い。兄を慕う東海の同僚たちもそんな事は百も承知で彼を慕っているのでやはり問題は無い。
問題があるとすれば、それをどうしたって理解していない鈍感な兄本人の性質だろう。
はあ、と溜息をひとつ。
ついでに下げたドラッグストアのビニール袋がかさりと軽い音を立てる。地球環境の為にレジ袋を断ってマイバッグを持とう、といつまで続くか分からない運動が盛んになっているが、財布をポケットに突っ込んで終わりにする若い男はどうしたって忘れがちだ。きっと兄ならエコ出張をアピールしている最中でもあるし、微妙な柄の布バッグを持参する事をきっと躊躇わないのだろうが(ちなみにJR東海ブランドでエコバッグはまだ無いので、ジュニアの知る限り兄が通常使っているのは何故か某荒ぶる有袋類の微妙なトートバッグだった)、まあそれは黙って中身だけ渡せば問題ないだろう。
どうしてこんなことをつらつらと考えているかと言えば、この袋の中身は自分ではなく兄の為に購入したものだからである。物品のリサーチに東海在来線が全力を挙げてバックアップをしてくれたが、どう考えても労力と情熱の無駄遣いである。
「……まあ、確かに日本を代表する高速鉄道の頭に盛大な寝癖が付いてたら沽券に関わるっちゃ関わるけど」
ふ、と遠い目をして手繰る記憶はそう遠くない過去。
JR東海本社での路線会議の朝のことだ。確かにその前の日は某所でお約束のように雨量計が振り切れっぱなしで動くことさえままならず、東京の高速鉄道執務室で兄が泣き喚いていた事は知っていた。
が、本日は晴天。きちんと走れる状態になってまで後に引き摺る事はないと知っていたからこそ知らぬふりをしたというのに、少し白い顔色で皆の前に顔を出した兄の頭には、ちょっと癖毛というレベルでは済まされない盛大な寝癖がついてしまっていた。
その瞬間、凍った空気をその場にいた兄以外の誰もが理解した。
理解して、だからこそ何とも言えないしょっぱい感情込みで生温い眼差しが期待と圧力を込めて東海道ジュニアへと向けられる。畜生おまえら全部俺にそう言うのを丸投げしやがって…!!
とはいえ、まあ確かにあの兄に歯に衣着せずに何かを言えるのは弟である自分と兄の同僚である高速鉄道のメンバーだけだろう。この場に兄とは別に上司であるところの西日本統括・山陽新幹線でも居たのならこれまたジュニアとて丸投げするところだが、残念ながらこの会議は東海のみの議題を取り扱うものなので、自分が言う以外に無い。
ああ、こんなちょっと窶れ気味の兄を更に萎れさせるような事を言わねばならないなんて。
あんまり認めたくないが誰もが言うように筋金入りのブラコンであるところのジュニアにとって、兄を否定するような事は出来れば言いたくないのである。だがしかし、このまま人前に出せるようなものではないのも確かであって。
泣く泣くわざと肩をすくめて軽い調子で窘め、ついでに何気なく兄の髪を直してやったのだが、思い切り機嫌を損ねたのと恐らくは気拙いのとで一週間以上口をきいてもらえなかったのは少々、否だいぶ堪えた。
そして、その後このような事態を防ぐ為に東海在来線のネットワークをフルに使って調べた結果明らかになったのは、兄が髪を洗うのに未だに牛○石鹸・青箱入を使っているという事実と、ドライヤーなどという文明の利器が彼の部屋に存在しない、という過酷な現実だった。そりゃあ髪だって跳ねるだろう。
牛乳石鹸はたぶん他社からの周知品を使い続けているだけだろう事は明らかだったので、せめてそれをシャンプーとリンスに変えるところからスタートすべきだ、という結論に達したのは昨夜の非公式な東海在来ミーティングの席でのこと。
ああでもないこうでもないと銘柄を検討した挙句に、兄の粗忽さを知るジュニアの起こり得る悲劇への危惧(分かりにくいボトルだと絶対に間違える、そして間違えたら癇癪起こしてまた石鹸に戻しかねない)を汲み、厳正なるあみだくじの結果買出し当番が決定されたわけだ。……まあ、あまりくじ運がよろしくないのは家系である。諦めが肝心だ。
そうして一見してわかりやすい色のボトルのセットを購入したジュニアは、足取りも重く兄の部屋を目指す。この一件を話した途端俄然やる気になった山陽上官の援護射撃もあったので、固形石鹸から切り替えることには兄を頷かせることに成功している、というのがせめてもの救いか。月に最低一回は美容院に通い、美容師お勧めのサロン専売ブランドを使っているらしい山陽には、同僚の状況が腹に据えかねた、というのもあったのかも知れない。
ビニール袋の中には、白と黒のボトル。
このくらい兄の中身も周囲に分かり易かったならば、こんな誤解塗れの状況は無かったろうか。それとも、人は見たいものを見るものだから、やはり兄は虚像の中に立ち尽くすしか道がなかったろうか。
それでも、ほのかに桜が香るボトルが少しでも兄を癒せばいいと願いながら、自分たちが兄を愛し慕う事実だけは伝わればいいと祈るように先を急いだ。
2009.01.20.
ランチタイムのちょっと前、奮闘する東海在来線とジュニアと面白がる山陽。お兄ちゃんは無自覚です。