フォース・アジテーション


 京浜東北からの不審な眼差しが呆れを含んだ諦観へと変わり、流石にそろそろ己の兄からも怪訝そうな気配を覚え始めた、その頃。
 それまで敏い彼には不釣り合いに何も此方に問うては来なかった上司の一人が、少しばかり困ったような声色と表情で、東海道の前でかりかりと頭を掻いた。
「うーん、俺としてはこんなこと言いたくねえんだけどさ」
 東海道が心配してるから、と愛すべき兄の名を盾にされては、もはや東海道本線には何も言えなくなる。ああやはり気付かれていた、と落ちかけた溜息は意地で飲み込んで、真っ直ぐに見据えた西日本の上司の色素の薄い茶の双眸は、けれどもそんな些細な意地すら見抜いているようにも見えた。
 あの日、東海道の心を揺らがした、山形新幹線と己の兄の様子。
 それを目の前のこの人は知るのだろうか、と渦巻く冷たい疑念の欠片を胸に宿したまま、東海道はただ静かに頭を下げる。
「……申し訳ありません、山陽上官。ですが、心配なさるようなことは何もありません」
 揺らいでいるのは己の心だけだ。
 国鉄という組織が崩壊し、新たにJRという名を得て民営化から、五年。国の後ろ盾を失い、ただ必死で走り続け、背負ったものの大きさに震える足を叱咤してきた五年間。それは即ち、己の兄がそれ以上の重圧を負ってきた年月でもある。
 兄の五年が悔恨と苦悩に満ちていたであろうことは、想像に難くない。兄が背負ってきた日本全国の国鉄路線たちはそれぞれに切り分けられ、中京圏の十数路線のみを束ねるに留まった。
 それを重責からの解放と取るか、自身の力不足故の不甲斐ない結果と取るか。
 しかし東海唯一の新幹線として、変わらずに折れることが許されなかった事実は変わらない。西日本という広大な管理区域を託された目の前のもう一人の上司、山陽新幹線にも今までのように全面的に兄を支える事は出来なくなり、余計に張り詰めた空気を纏うことが増えていたのも事実だった。
 弟でありながら、並行在来線でありながら、東海道には何も出来ず、何も言えず、ただ日々だけが無為に過ぎてゆく。その間にも周囲を取り巻く環境は、劇的に変化を遂げてゆくというのに。

 1992年3月、東海道新幹線に「のぞみ」登場。
 同年7月、新在直通運転を行うミニ新幹線、山形新幹線開業。

 兄を更に多忙な日々へと向かわせるだろう、しかし東海にとっての切り札でもある運行形式の登場は、東海道に不安と期待を抱かせた。
 けれどもその動揺が残る間に、更に訪れた変化……新幹線、という定義が揺らぐような上官の登場は、少なからず自分を含む本線クラスの在来線にとって衝撃を与えた。あくまで上官ではあるが、彼を定義する区間は在来線。果たしてどのように扱うべきかと思いあぐねた自分たちを尻目に、けれども東海道新幹線は、歓迎を以て彼の存在を受け入れた。
 それは、東海道にとっての更なる衝撃でもあったが、その後の光景に比べれば、今では些細なことだったのだと振り返るくらいの余裕は出来た。
 兄はどうして彼を、山形と言う名の中途半端な同僚を受け入れたのか。あまつさえ、あの白い手袋に包まれた手が触れるのを許したのか。
 叫び出したいほどの疑念を、目の前の上司にぶつけてしまうことは簡単だ。そして恐らくは、彼は当事者以外で唯一、その答えを知ることだろう。
 兄と直通する唯一の路線、その背を支え合うことを、歴史で証明した山陽新幹線。自分以上に兄と密接に関係する彼が、あの光景を知らぬなどということはあり得ない。
 けれどもそうして答えを得てしまうことは、他ならぬ東海道のプライドが許さない。本線として過ごしてきた時間と、兄の平行在来線として共に在った時間。そのどちらもが長い自分が、兄の支えに、慰めになれていなかった事実を思い知る結果を恐れているという事実も否めない。

 だからこそ、西の上司を前にして、東海道は何も表に出さずに笑って頭を下げる以外に取れる方策など持たなかった。己の中でも答えの出ないこの複雑怪奇な心根を、上司であるとはいえ目の前の男に曝け出すことなどできるはずもない。

「少し忙しかっただけですよ。これまで東の案件を京浜東北に任せっぱなしだったのを反省した、というのもありますが」
 己が顔を見せなかったことを兄が心配してくれるのはとても嬉しいのだけれど、とこればかりは本音である言葉を苦笑と共に漏らせば、決して納得したわけではないのだろうが、山陽上官はひとつ吐息を漏らしてこの場を引くことにしたのだろう、目を細めて肩を竦めた。
「おまえさんが思ってるより、東海道はおまえさんが大事なんだよ。なんでもいいから、顔見せてやってくれよ」
 じゃないとアイツの機嫌が悪くて仕方ない、と茶化した物言いは、これ以上の深入りをしない、という彼なりのポーズでもあるのだろう。しかし現状では有難い態度に、東海道はただ静かに沈黙を保ってひとつ頭を下げた。

 あの、手が。
 白い手袋に包まれた、兄を慰撫するあの手が、目の前の男のものだったなら、己は許容できたろうか。

 是と否を共に叫ぶ内心に綺麗に蓋をして、東海道は踵を返し、己の仕事へと立ち戻る。そしてそれを山陽上官も、留めることはしなかった。
 兄に触れるものが己だけであればいいと、兄が触れるものが己だけならばいいと、そう願った過去は今も生々しく此処にある。それは兄が特急として己の路線を走った頃から継続する己の醜い部分であり、今も隠す術ばかりは長けたが、消え去ったわけではないのだ。
 ひとつ落とした吐息は溜息にも似て、重く深く湿っている。
 兄の傍らで穏やかに微笑むのだろう北の地の新たな上官の姿を思い起こし、ちりりと痛む胸の辺りの制服を、東海道は掻き毟るように強く握り締めた。



2011.02.15.