ファースト・コンタクト


 それは、少し過去の話。
 上官と呼ぶ相手の中に、小さな長野や世話焼きな秋田が居なかった頃の出来事だった。


 山々の木々が色づきはじめ、吹きぬける風が冷たさを増す今日この頃。
 行楽シーズンも佳境を迎えた中で、並走する高架の上を相変わらず忙しく走り回る兄の姿をぼうっと見ながら、東海道本線を名乗る弟は溜息をひとつ零した。
 生まれた時から傍らにあった兄、それは幼い彼にとってはあまりに眩しく誇らしく、常に上を行くものとして認識されている。とはいえこの年になれば兄の一生懸命であるが故に空回る不器用さであるとか、とんでもないところで意地を張る見栄っ張り具合であるとか、そういったマイナス要素も把握できてはいるのだけれど。
 まあそういった要素を含めて、なんだかんだと兄を尊敬していると言っても過言ではないのだろうとは思う。首都圏在来線の連中が口さがなく告げるブラコン呼ばわりは声を大にして否定してやるが。
 付かず離れず同じような路線を走る自分と兄ではあるが、大抵大きな駅ではホームが離れ過ぎていて会う事は稀だ。小さな駅ならば姿くらいは見られるけれど、逆に発着が少な過ぎて本当にすれ違うだけになってしまう。
 時折遠目に兄の同僚であり、自分にとってはもう一人の直属の上司と呼べるだろう山陽と親しげに談笑をする姿なんかを見た日には、分かっていてももやもやするのが常だった。
 頭の中ではわかっている、自分と兄とが相互補完をしながら似た路線を走るように、兄と山陽上官とは二人でひとつの路線を走る、運命共同体のようなものなのだと。
 だからこそ、東海道本線はその光景を長いこと許容してきたのだ。それは兄が認めた、共に走る同僚としての信頼故だと、自分にはまだ身内としての甘さを加味してしか与えられないそれを、彼が得ているが故のことなのだと。

 だからこそ。
 つい先日に己の目の前で繰り広げられた光景は、数日を経た今であっても許容出来かねるものだった。


 あの日は、そう、大幅な遅延を出して自分は運休が数本、兄も払い戻しまで行うほどダイヤがガタガタに乱れていた。
 原因は季節外れの大雨、揃って悪天候に弱い自分たち兄弟は遅延の嵐で兄の機嫌はすこぶる悪く、そろそろ怒鳴り散らすだけじゃなくて変なドツボにはまり始める頃かも知れない、と戦々恐々としながら、避けようの無い現状報告の為に高速鉄道の執務室を訪ねた時のこと。

「そろそろ、機嫌ば直したらどだ?」

 穏やかに響く少し訛りがキツイ喋り声に、東海道はぴくりと肩を震わせ、ドアをノックしかけた手を反射的に引いた。あまり聞き覚えのない、けれども間違えようの無い声。
『山形……上官?』
 兄の傍に控えているのは何度か見た事があったけれど、彼が単語以外を喋るのを聞くのは初めてかも知れない。ゆったりと、独特のイントネーションで綴られる言葉の響きに、このままドアを開けるべきか否か逡巡し、ゆるく頭を降ってこんこんと軽くドアをノックする。
「東海道本線です、運行の現状報告に参りました」
 普段ならここまで格式ばった言い様はしないのだけれど、兄が機嫌が悪いというなら刺激するような真似はしない方がいいだろう。出来れば自慢の兄にはずっと泰然と構えていて欲しいが、兄の性格からそれが不可能なことくらいは熟知している。兄が弱った時に少しでも力になれたなら、こんな歯痒い思いはしなくても良かったろうに。
 つらつらと考えていた時間は、ほんの数秒。
「ああ、ジュニアけ?入って構わねえよ」
 予想していたように兄ではなく、先ほど聞こえた山形上官の声で入室を促され、ぱちりと瞬きをひとつ。
 こんな喋り方をする人だったんだな、と驚きを隠せないままにドアを開けて室内へと入り、目の前で繰り広げられている光景に更に驚愕を覚える。

 室内の片隅、人数に比べれば大きな応接セットのソファの上。
 まるで猫の子のように丸くなって、時折しゃくりあげながら山形の膝に己の兄が懐いている。
 時折震える背から兄が泣いているだろう事は明らかで、細い声が山形の名を縋るように呼ぶに至っては、なんとも複雑なものが胸の奥に滲む。

「あ、の……俺、兄貴に報告に」
「ごめんなぁ、こっだなんんだげどもら報告さ聞くのは無理じゃねえかな」
 宥めるように兄の背を撫でる山形の白い手袋が、やけにカンに障った。
 わかったように告げるその言葉も、彼に縋る兄も、その全てが東海道の許容範囲を大幅に逸脱している。兄だって弱る時くらいあるだろう、と頭の片隅で冷静な部分が主張していたけれど、それを上回る怒りと不服と必要とされない悲しみに、意識しないうちに表情が強張ってゆく。
「……俺、その、出直しますから!」

 これ以上あの光景を見ていたくなくて、逃げるようにその場を後にした。
 結局報告も有耶無耶のままに書類提出だけ済ませて終わった事にしてしまったし、それ以来不味いところを見られた自覚のあるらしい兄の方でも弟を避けてくれているので、さっぱり会えない日々が続いている。
 何故山形なのか、あんなに弱るほどに自分は頼りないのか。
 問いたくてそれも出来ない疑問符が胸の中で蓄積して膿んでゆくのを自覚しながら、東海道はきつく制服の胸元を握りしめた。



2008.10.30.