フィフィス・インシデント


 数日前から、天気予報が幾度も幾度も警告を繰り返した、冬の最後の断末魔のような季節外れの大雪。
 それはむしろ山形達雪に慣れた東北や北陸では無く、本来温暖な筈の太平洋側を襲い、普段ならば芽吹く春の気配すら漂わせるその地を、真白の斑に染め上げた。
 風に踊る桜の薄紅では無い、痛い程の冷たさを纏った白。それが春先特有の強風によって叩きつけるように全てを打つ。
 そんな状況下だ、同僚である東海道と山陽は早々に遅延と運休を余儀なくされ、揃って新大阪で足止めを食っている、と連絡があった。東京の高速鉄道執務室に顔を出さない時点で予想してしかるべきことだったのだが、電話越しにも力ない山陽の声と、現状を知らせる通話にすら参加しない東海道の有様は、推して知るべしと言ったところだろう。
 此方は気にするな、とありきたりな慰めの言葉を告げて、手にしていた受話器を電話機へと置く。窓ガラスを激しく叩く雪は幾分溶けて雨にも近く、背筋をぞくぞくとさせるような冷気を伴って世界を隔絶させている。
 それは山形が慣れ親しんだ降雪とは異なる、太平洋側のはぐれ雪の特徴でもある。山形新幹線として開業する前の特急時代にも、遭遇したのは片手で数えられる程度しか無い。上野駅のホームを薄く凍らせた雪と雨の混じったそれは、容赦なく靴裏から体温を奪っていったことを思い出した。
 気象情報に合わせたままのラジオからは、延々とこの狂い雪の余波が伝えられている。それは先ほど連絡のあった東海道・山陽新幹線に留まらず、太平洋側を中心とした北関東以北の路線たちへと波及しつつあることを教えてくれた。

 無論その中には、山形が東京駅でついぞ姿を見ることも無くなった『彼』の名前も含まれていた。
「……今頃は何処に居るんだがなぁ、寒ィ思いばしてねえとええんだけど」
 元より東海道新幹線と山陽新幹線の一部区間と並走する路線を持つ彼だ、こうした天候の崩れに共倒れになることは珍しくない。否、むしろ兄よりも降雪への対処設備が薄いことと、線形が複雑なこともあって、本来降雪地域では無い場所での天候不順があると真っ先に遅延情報が入ってくる。
 ただ、そこは天下の東海道本線。逐一入ってくる情報は天候の回復と共に変動し、その立て直しもまた他路線に比べれば早い。一分一秒を争う彼の兄には比ぶるべくもないが、彼もまたかの会社を担う主柱であることを伺わせた。
 彼の兄である東海道新幹線は、かつての経歴が故だろうか。走れない、という事実に強迫観念すら感じているらしく、膝を抱えている彼を慰めたことも、開業から一年足らずではあるが既に両手の数を超えている。

 身近な人間の優しい手は怖いのだと、ぽつりと零した東海道の言葉を思い出す。
 甘やかされて、慰められて、そうして許されてしまったなら、次はもう立てないかも知れない、走れないかも知れないことが心底怖ろしいのだと。ずぶぬれの制服で己の痩身を両腕で抱えながら、震える声で零したそれは、恐らくは彼の本音なのだろう。
 他人から見れば、何を弱気なと呆れるだろう。若しくはそれでも支えると、悲しまれるだろう。けれど多くを取り零し、今在るものにしがみついてでも守ろうとする彼にとっては、それが精一杯の矜持なのだと、山形は理解は出来ずとも認めることは出来た。
 だからだろうか、吐き出せない痛みを抱えた時には、東海道は山形に縋るようになった。そんなことがある度に山陽が向けてきた羨むような、責めるような眼差しも、最後に東海道が再び立つときに腕を引く役目を心得たのだろうか、避難場所としての山形を今では容認しているようだった。
 けれども東海道の弟である彼にとっては、それは許容し難いものだったのだろう。
 あの、上手く隠しはしたものの、一瞬でも悟ることが出来るほどに強い嫌悪と拒否と、驚愕。直ぐにその場を辞したのは、恐らくは彼の精一杯の矜持だったのだろうが、その実山形にとっても有難いことだった。
 かつて国鉄路線の全てに上官として君臨した、東海道新幹線。その系譜はその弟、東海道本線へと遡ることが出来る。上野発着の自分たち北の特急にとっては遠い世界の花形路線としか知ることのなかった存在だ。
 時折目に触れるとしても、遠景の一部か、或いは社内報程度の僅かなもの。自分がそうなのだから、恐らく彼は特急であった頃の己の存在など知りもすまい。彼の兄である東海道新幹線は、同僚となって話すうちに全国に広がった旧国鉄路線の全てを把握していたのだということを知り驚いたものだが、上野以北には彼と同等に数多の路線を束ねた北の大本線、東北本線の存在がある。山形自身もかつての特急時代には、何度となく東北本線の姿に背を正したものだった。
 だからこそ、彼との関わりは彼の兄を介在したものにならざるを得ず、その最初があの場面だったというのは、山形としても彼にしても、少々心臓に悪いものだったのは否めない。思わず口をついて出たのは、東海道に戒められていた地元の言葉で、内容を彼が理解できたかどうかは、今となってはわからぬままだ。
 それから、彼が山形の前に姿を見せる事は無くなった。必然的に彼の兄である東海道にも顔を見せる機会が減ったのだろう、不機嫌そうな顔つきに寂しさを滲ませて、彼の代わりに報告に顔を出す京浜東北に相対していたのを知っている。
 変わらぬ交通情報を繰り返すラジオに吐息をひとつ零すと、山形はかたりと椅子を引き、席を立つ。何の気なしに足を向けたのは、雨交じりの雪がガラスに複雑な文様を描く窓の傍だった。
 外見は古いが、腐ってもJRグループの根幹を担う高速鉄道の執務室である。隙間風が入るような安普請であるはずも無く、機密性の高いアルミサッシが入った二重窓は、外の荒模様が嘘のように空調の温かさで部屋を満たしてくれている。それでも手袋に覆われた指先で触れれば、途端に染みるような冷気が敏感な肌に伝播する。
 ああ、こんなにも冷えていたのか、と先ほど口に出した心配ごとを脳内で繰り返す山形の、眼下。昼となく夜と無く、首都圏に乗り入れる数多の路線や職員が行き来する連絡通路に、鮮やかなオレンジ色を認めてしまい息が止まった。

 その色を、この場所で纏うのは四名だけ。
 宇都宮線、高崎線、中央線。そして、彼……東海道線。
 思わず窓のロックに手を掛けた己の無意識の正直さに苦笑を覚えながら、それでも視線を引き剥がせぬままにその背を追う。制服の色だけで誰とは判別の付けられぬ距離だが、それでも久々に彼かも知れぬ姿を認めている事実が、山形の胸中に安堵に似た何かを齎した。

 けれど、それもほんの一瞬の出来事で。

 眼下で、ぐらりとオレンジ色の背中が揺らぐ。そのままふらりと倒れ込んだその傍らを、雪を含んだ強風に煽られるように紺色の傘が空を舞う。
 何かを叫んだろうか、それともロックを外し、窓を開けて外界へと身を乗り出す方が早かったろうか。途端に室内の暖かさを引き裂くような濡れた雪が顔に髪に貼りついた。己の管轄する地のそれよりも湿って重い、太平洋側の雪。それも季節外れのそれは、身を蝕むが如くに冷たく身体に突き刺さる。
 この中を駆け抜けるダメージは如何ほどか、鉄道である身ならば誰もが良く知っている。ぞくりとするほどに痛みを帯びたそれを振り切るように、山形は窓から身を引き剥がすと、一目散に階下に向けて駆け出した。

 そうして唯一の主を失い、無人になった部屋の中。付けっぱなしのラジオが無機質に、東海道本線を含む路線数本の全面運休を告げた。



2011.02.18.