エイトゥス・アタッチメント
触れ得ぬままにただ過ぎゆく時は、意識さえしなければ過ごすに苦痛は無い。
けれども一旦手が届きかけたそれがいとも容易く、そして決定的に欠け落ちた現実を前に、山形はひとつ溜息に似た吐息を零した。
冬から春に季節が移り変わろうとしていたとある日、季節外れの降雪と暴風に、あらゆる鉄道路線が足止めを余儀なくされたことがあった。山形の同僚のうち、雪に弱い東京以西の二人は東京駅の執務室についぞ姿を見せる事は無く、また他の面々もそれぞれの地域の在来線の運行情報を把握すべく、山形ひとりを残して東京駅を発った、その後のことだった。
ほんの偶然から窓の外に倒れ伏す彼を見つけ、己の部屋へと連れ帰った。
冷たく重い彼がこのままその象徴たる鉄になってしまうのではないかと、随分と私的な怯えを抱え、少しでも温めたいと願った心は嘘ではなかったように思う。
けれども目覚めた彼は、山形が好意だと信じて差し伸べたその手をやんわりと退けた。あくまで部下として、在来線として、その職務と志の赴くままに走らねばならぬのだと。山形が無意識に彼を守るべく囲い込んだ温かい部屋から、冷たく凍える己の職場へと、躊躇い無くその足を向けたのだ。
その背が無言に告げる絶対的拒絶の意思に、珍しくも山形は声を掛けあぐねた。掛けるのを止めたのではない、掛けられなかったのだ。
それは山形という路線の過去から連綿と続く自己の記憶を辿っても希有なことで、またそもそも去り行こうとするものに対して引き止めるような真似をするのも、非常に稀な事だと言えた。
自分がどうしたいのか、と己に問うことは、山形にはそう多くは無い。
山形という人物の歴史は、その大部分がただ其処に在るように、または何かがそう在るべくを望むようにと構築されてきたものだったからだ。とはいえ自己が希薄であるということもなく、ただ淡々と与えられた名前を享受し、その名に沿って走ってきたに過ぎない。
けれども、彼は。否、【彼等】は違う。
東海道の名を持つ兄弟は、その名にこそ象徴された路線だ。その名に恥じぬようにと、毅然と立つことを求められた路線、その最たるものであるからだ。
彼の兄、東海道新幹線の特急時代の終焉に立ち会ったことで、山形という存在は決定付けられた。無論彼と彼の兄を同一視するつもりはなかったが、無意識に彼の兄に対するようにその手を伸ばしていたのは否定できない。
幾つもの仮定の要因は数えられども、結果的には完全に山形の手は撥ね退けられた。その意識が在るうちは触れる事さえ許さずに、彼は彼の矜持を抱えたまま山形の部屋を去ったのだ。
彼の兄に請われて与えたように、ただ優しさと温もりと暫しの休息を与えようとした山形の手は、完全に空振りしたことになる。その事実に少しばかり残念なものを覚えながらも、決して己が後悔をしていないことこそが我ながら意外ではあった。
気付けば東京の地にも春は訪れ、宿舎の庭木である桜も薄紅の花を付けている。未だ半ばほどは蕾のままであったが、この調子ならば週末には見ごろを迎えるだろう。
山形の知る春の最も早い地は、此処だ。けれども彼ら兄弟は、山陽は、それよりも更に早い春を知る地を駆け抜ける。
その光景を知らぬ己には想像することしか出来ないが、雪の白ささえ知るのも稀だという土地もこの国にはあるのだと、いつか膝を抱えた東海道がぽつりと零したのを思い出す。
都市を駆け抜け、山を超え、海を臨み。移り変わる車窓の風景は、そのまま弟のものに等しいのだと、色を失った唇が紡ぐものは此処では無い何処かを見ていると知りながら、山形はただ相槌だけを打ってそれを聞いた。想像の範疇を超えていると知りながら、東海道が語る世界を脳裏に描くことすらせずに、宥めるように背を撫でた感触だけが確かなものだった。
その時は己の知らぬ世界、触れ得ぬ場所として聞いていたそれを、今はこの目で肌で確かめたいと望んでいる。彼が己の手を振り切って戻って行った居場所を、彼に連なるものを、この手で触れたいと願っている。
時代が時代ならば傲慢と取られかねないそれを、許される地位を己が持つ事実を、今だけは運命とやらに感謝したくなる。あの日泣いて嫌がった後輩の代わりにこの名前を背負ったことに、幾度目かの感謝を覚えて空を仰いだ。
東京の空は僅かに雲を刷いて、風の気まぐれさが流れる雲に明らかで。漆黒の制服を纏い上野の空を見上げた時とは異なる心持ちを覚えている事実に薄く笑みを刻むと、各地へと散る同胞たちが発着を繰り返すホームの、その先へと視線を向ける。
其処を占めるのは、白の車体に鮮やかな青のラインを引いた車両たち。その強固で稀有な意思を以て高速鉄道の王と言わしめる、東海道新幹線とそれに直通する山陽新幹線の車両たちだ。唯一絶対を許されたその色は、即ち彼らが背負う重責に等しいことを、今の山形は知っている。
たったひとつ、隔てただけのホーム。けれどもその先は、己らが立ち入るべきでない領域。許しも無く其処に足を踏み入れたならば、常は懐いた猫のような東海道も、へらりと人懐こく笑う山陽も、相応の刃に似た報いを以て相対するだろうことは、東日本の籍を持つ高速鉄道にとっては疑うまでもない事実だった。
ならば、彼は?
――己が彼に成そうとしたことは、それと同じ意味を持たなかったろうか?
「ああ…そりゃ、しょうないっだなぁ……」
東海道新幹線の、新幹線たる矜持を知っている。同時に、山陽新幹線の東海道新幹線の対とならんとする気概を知っている。それは即ち彼に通じるものなのだと気付かなかった自分の手は、ならば受け入れられるはずもない。彼の兄に対する態度も気に食わないというのなら、むしろよくあれだけの平坦な態度で己に接してくれたものだと、感嘆すら覚えさえもするのだけれど。
手を伸ばしてまで欲しいと願ったのは、そう多くは無い。在るものが在るように此処に辿り着いた山形にとって、走ること以上に求めるものは、記憶を辿っても探し出すことが困難なほどに少ない。
けれど今、希うように覚えるのは、その手の温度。
触れられなかった指先が伝えるものが冷たさか温かさか、それとも。
「……東海道に、ごしゃがれっとかもなぁ」
あの王様が己の弟を大切に思っていることなど、彼以外の者から見ればあからさまで、山形も何度も口元を綻ばせて弟の話をする彼に遭遇したことがある。ならば彼の弟に触れたいと願う山形を、彼は許容するのか、それとも拒絶を以て応えるか。
かつて廃止を嘆いた彼が怒りと涙を重ねてそれを告げようとも、山形は退く気がない己にこそ新鮮な驚きを覚える。この足が向く先にあるだろうものが何も生み出す事がない、いっそ全てに唾棄される種類のものだろうとも、止めるに足るものをこの魂が持たないというなら、山形にとって理由にはなり得ない。
かつり、と革靴がタイルに当たる小さな音。綺麗に磨かれたそれが示す地位も責任も何もかも、擲つつもりは毛頭ないけれど。
ひらり、舞う。
真白に薄く紅を刷いた、微かな香りと共に春を告げる花。
あの狂い雪の如く鮮やかに、けれど相反する暖かさを含んだ風と共に、何処かからか山形の目の前に落ちた小さな花弁を掬い取り、そっと手のひらの中に閉じ込める。
己の感情の予兆など、とうに感じていた。
彼の姿を見ないことに寂寥を覚え、また彼の敵意の視線に哀切のみならず、微かな喜悦を覚えはしなかったか。
それを気付かぬふりをし続けたのは、果たして己の為だったか、或いは彼の為だったのか。
けれど、気付いてしまったものを無かったことには、どうしたって出来ようはずもないことも、山形は良く知っている。
新幹線ホームを降りて、改札を抜けて。常のように東京駅の構内を歩く山形は、ふいと見上げた案内板の彼を示す文字列と鮮やかな橙色に目を細める。このまま彼の領域に行ってみようかと思ったのは、恐らくは気まぐれの類だったのだと、後から思い返せば苦笑しか出来ない衝動だったけれど。
この時ばかりはそれが最上の策であるように思えて、山形新幹線は躊躇い無く、『東海道線』の名を持つ在来線のホームへと、己の足を向けたのだった。
2011.02.27.