いつでもいっしょ、どこでもいっしょ


「山陽!……は、いないのか」
 ばたん、と勢いよく開け放ったドアの向こうには、東海道が探している人物の姿は見当たらない。今すぐ突き返してやる気だった書類の束をばさりとスチール製のデスクの上に置いて、ぐるりと室内を見渡した。
 東京駅のそれと違って、新大阪の上官詰所は自分と山陽しか使わない事もあって大した広さでもないし備品も古いままだ。まだ使えるものを古いからといって捨ててしまうのは勿体無いし、別に今のままでも不自由はしていない。
 山陽は何かあるとこの部屋にあるものを『なあ、これもう減価償却とっくに終わってね?新しいの買ってもよくね?』と言っているが、東海道はまだ十年は使用する気のあるものばかりだ。冗談じゃない。
 とはいえ、近い未来にはこの場所を使用するのも二人から三人に増える。そうなったらどうしたってこの詰所では手狭だから、部屋を移すか機能を分散させるかの二択になるだろう。
 その増える人物の事を考えれば自然眉間の皺が深くなるのはもう反射のようなもので、浮かびかけた黒い背中の幻をふるふると頭を振って追い払う。アレのことなんて考えるだけ此方が消耗するだけだと、ようやくこれだけの年月をかけて理解する事が出来たのは幸いだろうか。
「……いや、違う。今は山陽だ!」
 うっかり目的を忘れるところだったが、東海道はみみずののたくったような文字が躍る報告書を山陽につき返すために此処に来たのである。どうせアイツの事だから、何かのついでに適当に書いたに違いない。その気になれば此方が羨ましくなるような綺麗な文字も書けるというのに、その気分を表すかの如く山陽の筆跡は安定しないのが常だった。
 それでも判読さえ出来れば口喧しく注意はすれども受け取らない事もないのだが、今回ばかりはその判読さえとても怪しい有様だったのだから仕方ない。付き合いの長さは伊達ではないので東海道には何とか読めるのだが、丁度隣にいた弟に見せたら普段の己の眉間の皺より深いものが刻まれたので即刻突き返す事を決意した。
 そういったわけで山陽を探して此処に来たのだが、肝心要の人物の姿は無かった。二つ並んだスチール机のうちの片方、ごちゃごちゃといろいろなものが乗った山陽の机の上では紙コップに入ったコーヒーが湯気を立てているので、そうそう遠くには行っていないだろうし、すぐに戻るだろうとはと思うのだけれど。
「まったく……やれば出来るのに、アイツはいつもそうだ!」
 苦手だ、と肩を竦める事が多い書類仕事だが、決して適性が無い訳でもないと東海道は思う。単にあれは山陽が腰を据えて机に向かうのが嫌いなだけだ。
しかし、嫌いだからといって手抜きは良くない。少なくとも東海道の許容範囲からは著しく外れている。
 何回目か分からない溜息を零して、東海道は山陽の机へと歩み寄る。コーヒーの湯気は未だにそれが温かい事を示してはいたけれど、この部屋にやってきてから数分は経過しているのは確実だ。ひょっとしたら戻らないかも知れない、という可能性に気付いてしまい一層眉根を寄せた東海道は、苛々とした気分を隠し切れないまま手にした書類を机上に置こうとして。

 きゅっ、きゅっ、きゅっ。

 なんだか謎の音を聞いてしまい、ぴたりと動きを止める。きょろきょろとあたりを見回しても、自分以外にこの部屋には誰も居ないのは変わらないのだけれど。
「……?」
 テレビやラジオの類でも無く、業務無線のそれでも無い音に首を傾げながら音の先を探れば、それは山陽のごちゃごちゃした机の上から。何が鳴っているんだろう、と純粋な疑問を張りつけて、東海道は山陽の机上を覗き込んだ。
「……なんだ、これは?」
 視線の先、物が置かれていない僅かな作業スペースの上に鎮座するのは、エナメルブラックのボディに液晶パネルと数種類のキーが配置された機器だった。その液晶画面の中では、CGグラフィックの和室の中で白いネコらしき生き物が好き勝手に手足をばたつかせたり歩いたり転がったりしていた。
 画面には全く見覚えは無いが、本体は確か弟がこんなものを持っていたようないなかったような、これは何かと聞いたらゲーム機だと言われたような言われなかったような……
「って、あのバカ山陽!業務中にゲームなどとは言語道断だっ!!」
 ぎりりと眉を一瞬にして吊り上げ、東海道はその小型のゲーム機を手に取る。思ったより軽かった事に驚きながら、電源をぶち切ってやろうとその表面を探る。
 ボタンがいろいろあってよく分からないが、きっとどれかが電源なのは間違いない。どうして山陽といい弟といいこんな複雑怪奇な機械を操作できるのだろうか。自分ならば設計基と配線でも確認しなければ理解できないというのに、世の中は不条理なことでいっぱいだ。
 ぱちり、と触っている間に丸いボタンを押してしまった東海道は、それと同時にぴこん、と鳴ったゲーム機にびくりと肩を跳ね上げる。
「な、な、なんだ!?」
 慌てるあまりにぎゅっと力を込めて掴んでしまったゲーム機の液晶画面では、先ほどの音とともに此方を振り向いた白いネコが、きゅっきゅっ、と独特な足音をさせて此方へと歩み寄り、正面を向いたところでかくり、とその大きな頭を可愛らしく傾げた。
『なあに?呼んだ?呼んだ?』
 音声は出ていない。ぴこん、と浮かんだウインドウの中に、画面の中の白いネコのものと思しき台詞が流れる。どきり、と嫌な鼓動を刻んだ心臓につられるように力が籠った右手は再びボタンを押しこんでしまったらしく、またもぴこ、という軽い音と共にウインドウの中の文字列が切り替わる。
『山陽、トロとお話するニャ?トロ、山陽の好きな人の事聞きたいニャ〜』
「すっ……?!!!」
 唐突に出てきた山陽の名前と、彼が好きな人をこのゲームの中のネコが知っている、という事実に東海道は思わず目を見開いた。息が詰まって、ぱくぱくと開閉する口は音を出す事を一時的に放棄しており、それを判断する脳みそもショートしてしまっている。
 何を、いったい何を言い出すんだこのネコは!?
 山陽の、好きな人。そんな人物が居るのだろうか。自分は知らない、彼が特別に想っているのだろう人間が。
 どうしてだろう。少し息が苦しい気がする。山陽にだって好きな人くらい居たっておかしくなんてない。ちっともおかしくはないのだけれど。
 ふるふると震える指先が意識しないままにボタンを押し、再びぴこんと浮かび上がったウインドウの選択肢は「いいよ」と「やだ」。震える指先は勝手にボタンを連打して「いいよ」を選んでいて、複雑な顔色になってゆく東海道を置き去りにくねくねと身体を捩じらせていた白いネコは、ぴょいっと右手を挙げてウインドウの中に台詞を流してゆく。

『トロ知ってるニャ!山陽は東海道の事が好きなのニャ!』
「んなっ……?!?」

 今度こそかろうじて残っていた思考の欠片も吹っ飛ばすような爆弾発言に、東海道は震える指先からゲーム機を取り落としてしまう。まずい、と頭の片端に過ぎったものの手も足も動かず、呆然と見詰める視線の先でがしゃん、と机上に落ちるはずだったゲーム機はぱしりと大きな白い手袋に包まれた手のひらの中に吸い込まれて。
「あーあー、何勝手に俺のPSP触ってんの?」
 肩口からふわりと香る覚えのあるコロンの香り。自分よりもやや高めの体温はどこか安堵するような温かさで背中を覆い、くすくすと喉で笑うような吐息が耳元を掠めるに至っては、あっという間に頬に血が昇る。
「な、な、な……!!」
「あーあ、俺の秘密を勝手に井上さんから聞き出そうとは、東海道ちゃんも油断ならねーなぁ」
 ことり、と己の机上へと黒いゲーム機を置くと、空いた右手がするりと東海道の手を取る。ちなみにもう一方の左手はとっくの昔に東海道の腰にまわされていたりしたのだが、幸か不幸か錯乱しまくっている相手に気付かれた様子は全く無かった。
「ち、ちが、ちがっ……!?」
「違う?――でも、聞いちまったんだろ?」
 ふ、と首筋にかかる吐息に、東海道はぎゅっと目を瞑る。勝手に上がる体温と速くなる鼓動、過多になった血流は頭から下りてくれる様子もなく、ぼうっとする頭の中で警告音にも似た何かが鳴り響いてはいても、それに従う手足は全く自由にはならなかった。

 好きだ、なんて。誰が?誰を?
 山陽と共に過ごした時間は長い。ある意味実の弟よりも近い場所に、長い間共にあった男。彼と共に居る事は自分にとって当然で、大前提でもあって、だからこそ彼の隣を心地よいと感じるその理由なんて考えた事はなかった。
 それでなくても自分たちは、もうずっと子どもっぽい喧嘩ばかりしている、けれど仲の良い同僚でしかなかったというのに。
 そうしてずっと過ごしてきた山陽が、よりにもよってこの男が、自分を好き?いったいそれは何の冗談だ?

 ぐるぐると纏まらない思考に混乱の極致にある東海道の耳元で、低く艶めいた声が囁くように言葉を紡ぐ。
「……まあ、でも、知られちまったモンは仕方ねーよな」
「え……?」
 背後から聞こえる声に振り返ろうとした東海道の頬に、手袋を外した山陽の指先が滑る。細いばかりの己のそれとは違う、男の力強さを兼ね備えた綺麗な手が、頬をなぞり、首筋を辿って、確かめるように顎を取って。
「さんよ……っ、」
 慄くように呼んだ名は、最後まで綴られる事無く相手の口中に消えて音になる事はなかった。触れる唇、混ぜ合わせた吐息の熱、鼓動の強さと背中の体温。
 何が起こっているのか、考える事を放棄しなければ到底意識を保てないような状況の中で、東海道はただ目を見開いて、伏せた山陽の睫毛の長さを知る。
 舌先で唇をなぞるようにして離れた山陽のそれを認識するより早く、強請るような甘さの声が耳元に注ぎ込まれた。
「俺はおまえが好きだよ、東海道。……なあ、おまえは?」
 問いかけられた内容など、まともに考えられる筈がない事は山陽にだってわかりきっているだろうに、彼が捉えた東海道の手を開放する様子は微塵も無い。今にも砕けそうな膝と、熱さが引く様子もない顔面、とろけるような山陽の表情から逃げようと目を閉じても、背中から伝わる体温に余計に居心地が悪くなるのはどういった拷問なのだろう。
「なあ、言ってよ東海道……俺のこと、好き?」
 畳みかけるような山陽の声に脳みそが生クリームみたいにとろけてゆく幻覚を覚えながら、東海道はぎゅっと閉じた瞼をそろそろと持ち上げ、からからに乾いた喉からその一言を告げるべく、強く拳を握りしめた。

 あなたとわたしはいつでもいっしょ、それはきっとこれからも変わらない。
 でもその理由が少しだけ変わったとしても。

 やっぱりいつでもどこでも、いっしょにいたいと願っている。



2009.01.20.

名古屋で佐屋さんとどこいつネタで盛り上がった末に出来あがった妄想を形にしてみた。甘い!すこぶる甘いよ!
頑張ったのは東海道に殴られたり逃げられたりしない山陽です。更に糖度割増中。