遠い靴音


 東海道上官の靴音は、いつでも小気味良く高らかに響く。

 それは彼が足音を殺して歩くような事はしないからであり、また彼自身が背負う『JR高速鉄道の筆頭』としての自負からが大きい。
 少なくとも、自分たちの前で彼がその靴音に異常をきたしたことは一度もなかったし、そのリズミカルで高らかな靴音を聞く度に、彼を上司として仰ぐ自分たちをも誇らしく思う。
 そんな事をぼんやりと考えながら、飯田線は少し離れた新幹線ホームを通り過ぎる白い車体をじっと見つめる。
 この駅に止まることはない、かの上官が誇らしげに走らせるN700系。その車体は流線型を描いて美しく、思わず溜息が零れ落ちる。
 自分たちには触れることすら敵わない、いや、見ているだけだからこそ羨望を覚える。その感情は敬愛する東海道上官の横顔を見る時にも似て、心の奥底にじわりと何かが滲む感覚にももう慣れた。

 豊橋から険しい山中を走り辰野まで。
 東海道を時速270kmで駆け抜ける彼は自分のことなどほとんど知らないだろう。それでも同じ会社に属する路線のはしくれとして名前くらいは覚えていてくれればいい、とささやかな願いを込めて過ぎる白い車体を見送る。
 JR東海の屋台骨を支えるのは間違いなくかの上官で、自分たち東海の在来線は彼を支える一柱にもなれていない。
 ほぼ同じ区間を沿うように走る彼の弟である東海道本線は兎も角、山間を縫うように走る自分たちは、ほど近くに巨大自動車メーカーを抱えるが故に私鉄やバスよりもまずマイカーと闘わねばならないという世知辛い現実もある。

 それでも、不甲斐なくとも非力でも、自分たち在来線は彼の力になりたいと思う。あの凛とした背中と高らかな靴音が、いつまでも此処にあれば良いと願っている。

 規律に厳しく、業務に真摯で、けれども身内には根底でどこか甘いかの上官。出会った当初は上官という存在自体を煙たく思っていたはずなのに、気づけばこうして離れたホームから彼を見つめている時間があることに、飯田線はどこか不思議なものを感じていた。
 飯田線が関連する東海道新幹線の駅は豊橋だけだけれど、こだまと僅かなひかりが停車するだけのこの駅では、会おうとしなければ上官を避けることなど難しくもなかった。そもそも東海道上官の方でも弟と、商売敵である名鉄名古屋本線くらいしか眼中にはなかったろう。気楽なものだと笑っていたのも確かな本心だったはずなのに、その反面こうして遠くから彼を見つめる己が存在している。

 親愛なる上官。敬愛する上官。
 このJR東海で彼の弟以外が確かに抱えるこの感情に、形容詞をつけることはとても難しい。
 傍近くに在りたいとは思わない。この距離から見つめることさえ許されればそれでいい。
 それでも有事の際には自分たちを気にかけてくれる彼を知るが故に、飯田線はそっと胸に手を当てて小さく彼の名前を呟いた。

 踵を返す。余裕は十二分にあるダイヤだが、ゆえに遅れは許されない。
 たとえ力になる事が叶わずとも、彼の旗下にあるものとして最善は尽くすことくらいはできるはずだ。

「……行ってまいります、上官」
 また、明日。この場所で。

 誰も知らなくてもいい。誰が聞いている必要もない。
 ただ、明日またこの場所で。
 彼の白い車体を見ることが出来ればいいと思う。
 そうして明日も明後日もこの先もずっと、彼の足音が高らかに響いていればいいと、飯田線は真っ直ぐに己の走るレールの先を見据えた。



2008.07.12.

飯田線と東海道上官。
東海在来線はみんな東海道上官フリークだと信じてる。おかげで弟が自分がブラコンだと気づけないくらいがいい…!