三時のおやつはひよこ色


 高速鉄道執務室には、何故だか「おやつ箱」なるものがある。
 そしてそこにはなんらかのおやつが常備されており、お茶の時間や残業時の非常食として活用されていた。
 おやつ箱そのものがいつから始まったのかも皆よく覚えていないが、気付けばその箱はそこにあった。箱そのものは段ボール箱だったり空いたせんべい缶だったりと代変わりはしているが、その度に山陽がマジックペンを片手に箱の目立つ場所に「おやつ箱」の4文字を書き加えるので混乱を招いた事も無い。
 貰いものや地元からの土産、果ては自分が食べたいから買い求めたものまで様々なラインナップが箱の中を充実させており、減ったと思ったら誰かが補充していくので常に一定量を保ちながら、その箱は室内に己の居場所を確保していた。
 何よりも、こういった業務に関係ないものに一番癇癪を起こしそうな東海道が一瞥しただけで『……まあ、いいだろう』と珍しく許容したので、それは延々と高速鉄道執務室の隅に鎮座し続けているのである。

 時刻は夕刻、めっきりと日が沈むのも早くなったこの季節ではもう外は随分と暗い。まだまだ最終列車まではほど遠いけれど、とりあえず本日もなんとか無事に乗り切れそうだと、山陽新幹線は吐息をひとつ零した。
 本日の予定はこのまま東京に詰めて事務処理。やや首都圏の在来線には何時もどおり遅延が見られるようだが、東海エリアも西日本エリアも順調にダイヤをこなしているらしく非常報告は入っていない。今日何も心配せずに落ち着いて夕食を食べられるかな、と思ったら、途端に空腹を訴える己の胃袋に苦笑をひとつ。
 今日は昼だって余裕があったので、きちんと定食メニューを一人前平らげたというのにこれとは、果たして健康な証拠だと言っていいのだろうか。そういえば見た目通りに小食な東海道が残しそうになったサバの味噌煮定食のメインを三分の一ほど頂いたので、厳密には一人前以上とも言えるわけだが。
 これが災害、事故ともなれば空腹など即座に吹き飛んで三日三晩飲まず食わずでも何も感じないのだけれど、こうして平穏無事に一日が経過している状況では我慢ならないのだから妙なものだ。
 普段ならば7名いる高速鉄道のメンバーが誰かしら残っている執務室の中も、今はぽっかりと空虚な沈黙だけが漂っている。東海道は東海の会議に出席後現在自身の架線を東京に向かって移動中、東北と秋田は関東以北の路線の定期査察、上越と山形はそれぞれ地元での業務、長野は北陸新幹線開業にあたっての準備会議に出席しているらしい。
 がらんとした室内の少し硬質な空気を持て余すようにぐるりと視線を巡らせた山陽は、その視界の端にひっかかった愛媛みかんの箱に気づいた。
 確か先日までは随分前に上越の持ち込んだ煎餅のブリキ缶がおやつ箱だったはずだが、如何せん長いこと使っている為か蓋がうまく閉まらない事が多々あったので、新たな箱を作るべく山陽が持ち込んだものである。『これ新しいおやつ箱な!中身は痛む前に早く食べろよ!』と告げながら、みかん箱の側面に何時もどおりおやつ箱と書き込んだ記憶も新しい。
 はてあの中身のみかんはすべて消費したのだったか。そうでなくてもブリキの缶が消えている以上、その中身は移し替えられたのだろうから何かしらが入ってるのは間違いないのだろうが。
 そんな新たなおやつ箱から夕食前の空いた小腹に少々失敬、と思ってかぱりと蓋を開けた山陽は、けれどもその予想外の中身に思わずぱちりと瞬きをひとつ。

「……えーと?」

 みかん箱の中には、何も無かった。
 山陽が記憶している限り、昨日の昼まではみかん数個と誰かが持ち込んだ鳩サブレが数枚は残っていたはずなのだが、見事なまでに空っぽな箱のそこにはメモ用紙の切れっぱしらしきものが一枚ぺらりと残っているだけだ。
 箱の中のそれは窓の外からの沈みゆく僅かな陽光だけでは読み取る事は出来ず、なんじゃこりゃ、と呟きながら紙きれを摘み上げた。
 頭に疑問符を張りつけたまま眼前に翳したメモの文字は、山陽にも覚えのあるやや丸っこいけれど几帳面なもので、これを書いたのが誰かという事を署名を見るまでもなく理解する。間違いなく秋田の文字だ。
 ……なんとなく現状の理由を薄々と察した山陽だったが、メモの内容はそれを裏切らないものだった。
 『ごめん、おやつ箱空になっちゃった。帰りに何か買ってきて補充するから待っててね。 秋田』って空になっちゃったんじゃないだろう秋田、絶対おまえが中身食い尽したんだろ!
 空腹を抱えたままなんとなく打ちひしがれた気分になりつつ、山陽はぱちりと蛍光灯のスイッチを入れる。がらんとした空間はどうにも寂しくて、こうなったらこの部屋を空けて東海道に叱られるのを覚悟で買出しに行くべきだろうか。
 思わずポケットの中のパスケースを確かめ、その中身であるところのICカードの残額を思い出そうとする山陽の背後で、がちゃり、とドアが開く音が響いた。
「……何をしている、山陽」
「あ、おかえりとーかいどー」
 呆れたような声を発したのは、どうやら戻ってきたらしい東海道だった。にへら、と誤魔化すように笑って振り返って、その長年の相棒の姿にぎょっとめを見開いた。
「おま、何その大荷物!?まさかそれ抱えて名古屋から帰ってきたのかよ?」
「仕方無いだろう、私を思ってくれるというものを断るわけにもいくまい」
 山陽の言葉通りに、東海道の両腕にはたくさんの荷物が抱えられている。紙袋が四つにビニール袋が二つ、次いでに右脇には東海道がいつも使っているファイルケースが引っかけるようにして挟まっており、普段はファイルより重いものを持たない男の珍しい姿に、慌てて彼の左右の腕にひっかかっている袋を外しにかかった。
 見ための大きさに比べてそう重くは無いが、それでも自ら下ろす事さえ難しい袋を山陽が奪い取るようにして応接セットのテーブルの上に置くと、ひとつ吐息を零して東海道は唯一残ったファイルケースを抱え直した。
 大量の書類が入っているだろうそれを己の机上に置いて、普段ならそのまま書類整理に入る東海道が、珍しく踵を返してソファの上にどっかりと腰を下ろす。再び落ちた溜息に近しい吐息に、相当苦労してこれを運んできただろう事を山陽は悟った。
「貰ったって言ってたっけ?」
「ああ。是非私に持って行って欲しいと言うのでな」
 口調は呆れたような響きをしていたが、その表情は東海道の心を反映して少し柔らかく綻んでいる。どうしてあの東海道新幹線親衛隊のような連中の一途な忠義と敬愛が通じないのか全く以て山陽には理解できないが、未だにこの高速鉄道の王様は部下に煙たがられていると信じているのである。
 彼の最愛の弟曰く、東海在来線一同にとっての東海道というのは生き神様にも等しいらしい。その純粋な崇敬が距離と感じられ、逆に東海道に寂しい思いをさせているとはある意味本末転倒ではある。実際に彼らの嫉妬を一身に受ける身としては、出来れば早めにこの擦れ違いを解消して欲しいと思い続けて数十年が経過している。そろそろ諦めが肝心だろうか。
 兎も角、悲しい行き違いはあるものの東海道にとっては部下の全ては厳しく接しつつも可愛くて仕方がない存在だからして、こうして好意の欠片のようなものを示されると弱いのだろう。
 次々と開封される紙袋の中身は、どうやら彼らの沿線銘菓の数々であるらしかった。山陽にも見覚えのある有名なパッケージもいくつか見て取れる。誰が何を持ってきたのか察する事が出来そうなラインナップに頬を緩め、空だったおやつ箱にそれらを放り込んでゆく東海道の背中は楽しそう、の一言に尽きる。
 東海道が楽しそうならなんとなく楽しい気分になってくるのが山陽の性分というもので、先ほどまでの空腹を忘れたわけではないが、少なくともあの空虚で寂しい気分は解消された。全部バラし終わったらそこからいくつか失敬すればいいや、と考えながら、山陽は最後の紙袋に手をかけてはたと手を止めた。
「とーかいどー、おまえ、ジュニアにも貰ったのか?」
「は?東海道?いや、アイツからは何も」
 予想外の名を出されたのだろう、ぱちりと瞬きひとつで目を見開いた東海道の様子に、山陽は彼が傾げたのとは逆方向に首を捻る。
「んじゃ、コレ誰から貰ったんだよ?」
 ずい、と二人の目の前に出されたのは、某夜のお菓子の特徴的な袋だ。それ自体は東京駅でも名古屋駅でも売っているが、どちらにせよこれを自身の土産だと言えるのは、山陽の知る限り東海道とジュニアの二人しかいない。だからこそジュニアに貰ったのかと問いかける山陽の目の前で、東海道の表情がびしりと固まった。
「と、とうかいどー?」
「それは……その、帰りがけに浜松工場で、ちょっと」
 東海道・山陽新幹線の運行上の重要拠点と言えるのは東京と新大阪の二か所だが、東海道にとってはかの地方都市の工場もまた走る為の土台として重要な場所ではある。本来の用件以外でも顔を出すようにしているのだと聞いた事はあったが、こんな風に固まって言いよどむような要素が彼の地にあっただろうか。ぶつぶつと独り言を呟く東海道のか細いそれを聞き取るべく耳をそばだてると。
「あの赤い悪魔……私が部下から物を貰うのがそんなに驚愕だとでもいいたいのか性悪私鉄め。しかも笑いながらわざわざ買出しに行ってまでこんなものをくれてよこすとは、私に何か思うところでもあるのか?だいたい何故私が寄る時など不定期だというのに必ずアイツが居るんだ、どこかから情報が流れているのではあるまいな……」

 ――そういやひとつあったな、東海道の苦手なモノが。

 かの地に根付いた私鉄と、その妹。山陽は妹の方には面識が無いが、兄の方には一度だけ会った事があった。食えない男だ、というのが第一印象だったような気がする。
 本来なら関わるはずもないし関わったところで東海道の優位が髪の毛一筋ほども揺らぐような相手でもないのだが、壊滅的に性質が合わないのだという人物。しかも合わない、苦手だと思っているのは東海道の方だけだというのがジュニアの見解だ。ある意味余計に救いようがない。
「えーと、東海道?ホラ菓子に罪はねーわけじゃん?」
 未だにぶつぶつと情報漏洩を本気で懸念している東海道の肩を叩いて、がさがさと袋の中身を取り出してみる。紙袋がこれならば中身はあの夜のお菓子と称されるパイ菓子を予想していた山陽だったが、袋から取り出したものはその予想を裏切って黄色い包装紙に包まれていた。
「何コレ……ひよこ模様?」
 包装紙一面にひよこが描かれたたまご色のパッケージ。ご丁寧に『名古屋コーチンの卵を使用して更にふんわり!』と書かれた表面には、金色のひよこがこれ見よがしに一羽。
 一緒に入れられていたのだろうメモ書きがひらり、と宙を舞って卓上に落ちる。何気なくそれを読み上げてしまった山陽は、次の瞬間にそれを後悔する羽目に陥った。
「『貴方が好きそうだと妹と二人で選びました。貴方御自慢の「のぞみ」の車内販売でも売れば良いと思います』……って」
 パッケージに記されているのは『静岡銘菓』の文字。そして当然、東海道・山陽新幹線の「のぞみ」は静岡県内には一ヶ所たりとも停まらない。
 まあ、つまりは。

「そんなに私が気にくわんのかあの零細私鉄っ!!」
 ……遠回しな皮肉である事は誰の目にも明らかだった。少なくとも東海道にすら通じる程度には。

 あちゃあ、と山陽が気付いた時には既に東海道の暴走は始まっている。必死で我慢しているものの怒っているように見せかけて本来は泣きそうなのが一目瞭然な東海道が、ヒステリーじみた口調で自身の営業理念と経営努力を滔々と語り始める傍らで、山陽は思わず天井を見上げた。


『あの人は泣きそうになるのを我慢してる時が一番可愛いと思いませんか、西の上官さん?』

 にっこりと毒の欠片も無いような表情でとんでもない台詞に同意を求めてきた赤い制服の男の顔を思い出す。
 そんな歪んだ趣味は山陽には無い。無いからこそあの時は呆気に取られて問いかけられた言葉に返事も出来なかったが、今なら全力で否定する。だからこんな手の込んだ嫌がらせみたいな好意は頼むから向けないでやって欲しい。通じない事は九州の例からも明らかな高速鉄道の王様を前に、苦労するのは自分なのだから。
 山陽は記憶の中の赤い制服の男に対する印象を『食えない男』から『油断ならない相手』へと書き変えて、とりあえず目の前の同僚をどうやって落ち着かせるかと思考を巡らせた。






2008.12.22.(拍手再録)