幸福のチョコレート


 手にした紙袋には、深い群青色の包装紙に落ち着いた銀色のリボンをかけた包みがひとつ。無意識のうちに選んだそれらを、長野は『山陽せんぱいの500系みたいな色ですねえ』と笑った。包装紙を分けてもらった秋田には『東海道だから白にブルーのリボンかと思ってた』と告げられ、自身の嗜好からすれば確かに珍しい組み合わせだったかも知れない。
 長野の言葉も秋田の言葉も確かに言われてみれば、と己の無意識に苦笑を返すしかなかったけれど、決して指摘された事実そのものを否定したいとは思わなかったのは、バレンタインの魔法だろうか。
 長野と作った、ちょっと不格好な手作りのトリュフ。
 互いの頬だの鼻先だのにココアパウダーを付けて笑いながら、それでも真剣に作ったそれらを、秋田監修の元にラッピングしてそれぞれに相手に渡すべく別れたのは数時間前のことだ。
 今頃、長野は無事上越に渡せたろうか。あの男は甘いものが得手ではないのは分かっていたけれど、きっと長野からのそれを断る事は無いだろう。
 自身は決して認めようとはしないが、東海道の次に長野に甘いのは上越だ。口では憎まれ口ばかり叩いているけれど、己の存在意義を失ったとしても彼は長野の成長を見守り続けるだろう。少し悲しい現実ではあるけれど。
 かつん、と革靴の底がタイルを叩く堅い音。降り立った西の地のホームは勝手知ったる己の領域で、また彼との境界線とも呼べる場所。いずれ自分たちだけの場所では無くなるとしても、今此処に在る高速鉄道は自分と山陽の二人だけだ。

 長い間、互いの間にある感情に名前を付ける事を忘れていたように思う。

 ひとり、またひとりと同僚が増えて、自分たちは同じものではなかったのだと、その時ようやく愚かな自分たちは気付く事が出来たのだ。比較対象が無い互いだけの世界は名前を必要としないほどに近く、逆にまた遠くもあった。
 少しずつ互いを知ったとしても、それは溝を埋めるものではなく同じものではないのだと思い知る断絶に近かった。けれど衝突と和解を繰り返し、ようやく東海道が己の気持ちに気づいた時には、もう隣を彼以外で埋められない己に気付くのにも等しかった。

 山陽が好きだ。彼があっての己なのだと、今なら確信できる。
 そして彼も同じように想ってくれていると、自惚れでも無く現実として知っている。

 ぎゅっと握りしめた紙袋の持ち手が、もう何度も繰り返した同じ動作によってよれてしまっている事実には気付かないふりをして、東海道はふい、と辺りを見回す。相変わらず西の大都市であるこの駅のホームは人で溢れていて、多少不況の影響で乗客が減ったとしてもやはり混雑している事には変わりはない。
 たくさんの人々が、己を足として東西を行き来する。それは己の存在意義であり、また歓びでもあった。それが出来るのもまた山陽という得難い存在のお陰でもあるのだと、くすぐったいような幸福感に拍車をかけた。
 日が暮れかけたホームは肌寒く、オレンジの夕日がタイルを染め上げている。確かめるようにそれを踏みしめ、東海道は何時もより少しだけ足早に執務室へと向かった。
 毎年恒例となった山陽からのチョコレート。意味を求める事さえしなかった最初の数年、貰うばかりの現実に申し訳なさを覚えたその後の数年、そしてこそばゆいほどの彼からの感情に戸惑うしか出来なかった長い期間。
 それらの遠回りがあるからこその今の自分たちがあるのだと、素直に認められるまでにかかった時間は決して短くはなかったけれど。
 遠目にも明らかな茶色の髪と長身。深緑の高速鉄道の制服がその大柄な体躯に良く似合う男の姿に、自然東海道の口元は笑みを刻み、弾んだ声が彼の名を呼んでいた。
 ……たぶんそれこそが、答えそのものだ。

「山陽!!」
「あれ、東海道?」

 名を呼べば、躊躇いなく振り返る彼の顔にも笑みの気配。どうした、と問う声には答えないままに、急ぎ足で駆け寄る。
「なんだ、来るなら言ってくれれば迎えに……って、うわっ!」
 山陽の姿を目にした瞬間、これまで抑えていたどこかふわふわと浮きたつ気持ちが更に加速したのを感じて、東海道は人目が無いのを幸いとばかりに彼の胸へと飛び込んでみる。全く以て己らしくない行動だが、この日ばかりはこんな気紛れも許されてもいいだろう、と馴染んだ己と同じ制服の生地に頬を擦りつける。
「ちょ、おい、とーかいどー?!」
 どんな風の吹き回しだよ、と困惑しながらも決して拒否ではありえない山陽の声。

 ああ、そうだ。幸福とはこういうことに違いない。

 かさり、と紙袋の中で軽い音を立てたチョコレートに、東海道は小さく息を吸い込む。
 少しだけ常と異なるバレンタインは、常よりも少しくらいは甘くたって構わないだろう。熱を持つ頬を自覚しながら、それでも素直じゃない己を叱咤するように紙袋の持ち手を強く握り締めて。
 どう告げてこれを渡そうか、とその懊悩すらも楽しく感じる事を知った東海道は、傍近くにある山陽の僅かに明るい色の双眸を真っ直ぐに見上げた。



2009.02.14.

バレンタイン小噺・山陽×東海道編。これにておしまい!