幸福のチョコレート
それは小春日和と言うべき冬の最中にも麗らかな昼下がり。
常に無いほど余裕のあるペースで書類を捲っていた東海道に向けて、元気な声が向けられた。
「とーかいどーせんぱい!これ教えて下さい!!」
「……は?」
からり、と東海道が手にしていたペンが机上を転がる。
唐突な申し出に硬直してしまったその視線の先には、頬を紅潮させてわくわくとした表情で此方を見据える小さな同僚・長野の姿があった。その手には「かんたんチョコレートレシピ」とまるっこい字で書かれた本がぎゅっと握られている。
そういえば、来週末の土曜は2月14日。確かバレンタインとかいうイベントだったろうか。
毎年毎年山陽がチョコレートを寄こすので、流石の東海道も忘れる前に思い出す程度には浸透している年中行事だ。ちなみに本来の意味は何かと問われても忘れている程度には単なるチョコの日と化して久しいわけだが。
にしても、この長野の言葉は唐突に過ぎる。
もとより己が仕事以外では大抵役に立たない事は付き合いも十年を超えた現在では長野だって良く知るだろうに、わざわざ他の同僚ではなく己を指名するとはどういった用件なのだろうか。
「その……ながの?」
「はい、なんですか東海道せんぱい!」
明朗なお返事は非常に宜しい。教育が行きとどいている事実に満足を覚える己の逃避に軽く頭を振って、きらきらとした眼差しで此方を見上げる長野へと向き直る。
「どうして私に?おまえとの時間なら上越や秋田の方が取りやす……」
「じょ、上越せんぱいはダメです!ナイショなんです!!」
東海道の言葉をさえぎるように叫んだ長野の必死な様子に、ああ渡したいのは上越なんだな……といくら鈍い東海道でも気付かざるを得ない。はてでは上越の次に彼の世話を焼いている秋田は、と考えたところで、しゅんとした様子の長野が僅かにうつむきながらぽそりと零した。
「秋田せんぱいは『ごめん僕オーブンと相性良くないんだよね。いやコンロだってレンジだって相性良くないんだけど』と仰って……」
「あー……」
下を向く長野とは正反対に、東海道は思わず天井を仰いだ。そう言えば彼がお茶を淹れる以外でキッチンに立っているのを見た事は無い、気がする。何でも美味しそうに食べていたし、驚くほど知識はあるので気付かなかったが。
「それで、お菓子だったら東海道せんぱいが御存知じゃないかって言われて……」
「いや皆まで言うな。なんとなくだが察したような気がするから……」
ふるり、と知ってはいけない一面を知ってしまったような錯覚を振り払い、長野のふわふわの髪をくしゃりと撫でた。
「幸い今はさほど忙しくもないからな。私で力になれるなら何でも言うといい」
「っ、ありがとうございます!!」
ぱあ、と明るくなる表情に、自然東海道の相好も綻ぶ。この小さな同僚に自分は甘い自覚はあったが、大きくなるまでの僅かな間くらいは存分に愛情を注いでやったって罰は当たるまい。彼にとっての猶予の時間は、自分たちにとってもそうなのかも知れないのだから。
「そら、どれを作りたいんだ?ものによっては材料や器材を用意するところから始めなくてはならんのだが……」
はい!と元気な返事を返して慌ててページを繰る長野と頭を突き合わせて本を覗き込みながら、手もとのメモ用紙にさきほど取り落としたペンで材料を書きだしてゆく。流石に忙しくは無い時期とはいえ自ら材料を買いに行くほどの時間は無いので、長野の付き添いに在来の誰かを寄こしてもらうように京浜東北に頼んでおけばよいだろうか。
これなんかいいと思うんですが、と楽しそうに告げる長野の声を微笑ましく聞きながら、妙に自分も楽しい気分になっている事に気付く。
山陽も、こんな気分で自分に毎年渡してきたのだろうか。心を伝えるのは言葉でも品物でも構わないけれど、それを準備するまでの時間も心を浮き立たせるのだと、東海道は新鮮な気持ちで受け止めていた。
長野に付き合いついでに、今年は自分も彼にチョコレートを渡してみようか。
それはとても良い思いつきのように思えて、東海道は口元をそうと気付かずに綻ばせる。己が好むよりもう少し甘さを抑えて、彼が好きそうなシックな色合いのリボンをかける……のは自分には難易度が高いので、弟か秋田に頼んでみよう。
少しだけ常と違うバレンタインの始まりに、東海道は長野と顔を見合せてふわりと笑みを交わした。
2009.02.14.
バレンタイン小噺・東海道&長野編。あともう一話続くよ!