ボーダーライン
ふと気付く空白、あるはずのものが無い違和感。
ずっと、それこそ気が遠くなるような長い間、自分たちは一緒に走ってきた。肩を並べ、背中を預けて、時には相容れない主張に本気でぶつかり合いながらも、それでもずっと彼は自分の隣に居たのだ。
吐き出した紫煙はゆるりと喫煙室の天井に向けて白く溶けてゆき、舌の上に僅かに残るぴりりとした苦味が酷く馴染む。社会の風潮に従って量を控えるように東海道に口煩く言われてはいるが、長年に渡って愛飲してきたそれを急に止める事は不可能で、未だに山陽の胸ポケットには煙草とライターが常備されている。
尤も、そう言う東海道とて完全に禁煙できているわけでも無く、時折狭い喫煙室を真っ白にするくらいにふかしていることもある。そういう時は大概マリモになる一歩手前まで追い詰められていると知っているから、わざわざ余計な事を言う気になれないだけだ。
大雨、強風、落雷、そして人身事故。
対策は取れても結局のところ避けようのないそれらに、けれども東海道はいつも誰よりも真摯に取り組んできた。他の誰もが『仕方無い』で済ませてしまうことを、彼だけは『どうにかなるはずだ』と今もなお信じているのだ。
だからこそ、そういった事態に対しての彼の悲嘆は誰よりも深い。単純に彼の弱さがあんな姿を曝しているのなら甘やかして慰めて、真綿で包むように大切にしてやることもできたけれど。
彼のひたむきな強さこそがそのみっともない姿に繋がっているのだと知ってしまったから、山陽は彼を突き放すことしか出来なかった。ギリギリの、壊れる寸前には引き上げてやるつもりはあったけれど、単純に彼の泣き言を聞き流し、彼の望むようにあやしてやるような優しさでは、彼が強いからこそきっと最終的には毒になる。
山形のように、ただそこにあるだけで彼を癒せるのならそうしたろうけれど、残念ながらそうするには山陽という存在は彼とあまりに近くて遠過ぎた。ずっとほど近くで走り続けてきた年月は、そのようにあることを互いに許さなかったから。
ふ、と溜息のように煙を吐き出す。ちりちりと短くなる煙草を灰皿に押し付けて、仰いだ天井は白くぼやけている。換気扇の処理能力を超えた紫煙は確かに身体にはよろしくないに違いない、と苦笑を零して、取り出しかけていたもう一本を箱に戻し、ポケットへとライターと共に押し込んだ。
通常業務を終える金曜の夜から日曜の夜にかけて、東海道は本社のある名古屋に戻るのが常だった。理由は東京詰めで滞った各社統括としての業務を片付けるためで、同じ様に山陽もまた大阪へと週末は戻ってくる。
けれども、それは常に共に走る彼との断絶をも意味していて、休日の前だというのにどうにも晴れ晴れとした気分にはなれないでいる。
それに明確な在来線取りまとめ役が存在しない東海と異なって、西日本では各在来線が持ち回りでそれなりにまとめてくれていて、山陽のやるべき事は検討事項を確認し、認可の印を押す程度のことだ。東海道や東日本の面々が気を使ってくれるのは有り難いのだけれど、通常業務の合間にもそれらをこなす事は不可能ではなく、地元で過ごす休日を持て余している事も否めない。
理由を付けて他のメンバーの居る東京に残ってみた事もあったけれど、余計に空虚が増すだけで、言い訳をするのも面倒になってやめてしまった。
そう、結局はただひとつ。
彼が居ないという一点だけが己を苛んでいるのだから。
「あー……会いたいなー」
強がってみても、適当な言い訳を考えてみても、行きつく先はただ一つ。
会いたいという単純な願望だけが心の大半を占めていて、他の事は単なる付属物になり下がる。彼が自分に向ける感情は暖かく、自分が彼に向ける感情も酷く似た色をしている事に気づいたのはいつだったろうか。
これくらいは許されるだろうか、と恐る恐る向ける甘さが許容される度に、貪欲になる己が存在している。互いに何もかもを預けてしまう事もすべてを捧げる事も出来もしない癖に、今のままでは苦しいのだとどこかが悲鳴を上げ続けているのを無視してきた時間は短くない。
喫煙室の少し硬いソファから立ち上がり、壁に掛けられた時計を見る。
時刻は夜半過ぎとはいえ、終電からはまだ遠い。
そしてあの仕事中毒気味の東海道ならば、あと数時間は執務室に居ることだろう。
明確に何か、きっかけがあったわけじゃない。
ただ、その不在が許せなかった。此処にあるべきものがないこと、それがたまらなく許せなかっただけだ。
あの不器用でけれども芯の部分ではとても優しい、気の毒なほどに強い彼を見ない休日を許し難いと思うほどには、山陽にとっての東海道の存在はとても大きくて重い。
その感情を世間が何と呼ぶかは、気付いていたけど知らないふりを続けていたけれど。
足早に向かう先はプラットホーム。彼と己を繋ぐ唯一無二の線路。
何時だって彼とはこうして繋がっているのだと、言い聞かせたそれを確かめるように夜の闇に沈む先を見据える。
何を、何から話そうか。
会いたいと思う心の意味を、ずっと共に過ごした心地良さを、常にあった焦燥を、何よりもその強さと優しさを得難いと思った己を。
そうして端から浮かぶ言葉の欠片を噛み締めるように確かめて、夜の闇の中を東へと、彼の居る場所へと繋がる、繋げる車両に乗り込んだ山陽は、口元を僅かに緩めて瞳を閉じた。
2008.09.22.
ホリデイの山陽視点。
しかしまだ消化不良なのでもう一話くらい続くよ。