カゴノトリ
長い長い午睡のような年月の果て、この忘れ去られるだけの名前を必要とする輩がいる。
その夢よりも不確かな現実に、彼にあまりに似つかわし過ぎる皮肉めいた笑みを浮かべて、かつて超特急『つばめ』を名乗った男は、この日の本の国の西の果て、九州の地にて高速鉄道の一員として新しい名前と職務を受諾した。
ふたたび『つばめ』の名を持つ車両が、レールの上を走る。
その事実を、今は遠い本州で東西の大都市を結ぶ路線を駆ける彼はなんと思うだろう。名実共に日本を代表する鉄道、かつて己の名と共にあったその称号を冠する彼は、果たして今此処で蘇らんとしている己をどう捉えるだろうか。
かつて、一羽の鳥を飼っていた。
その鳥は己の影であり、己そのものでもあり、また決定的に異なる別のものでもあった。愛憎と呼べるほど明確なものがあったかどうかさえ定かではない。ただ、自分にとってのその鳥は『当然其処にあるべきもの』だった、ただそれだけのことだった。
目を閉じればセピアに色褪せてもその光景は鮮やかに過ぎて、過ぎ去った年月はそろそろ半世紀を数えようかというのに細部に至るまで克明に思い出す事ができる。
常にその鳥が浮かべていた表情は何かに耐えるような強張ったもので、それは明らかに負の感情によって形作られたもの以外の何物でもなかった。
絶対的な上位者である己の一挙手一投足に怯え、それでも耐えるだけの強さは持っていた。或いは他の大勢のように追随するだけの従順な駒になれたならきっと彼はもっと楽だったに違いない。
けれども自分の傍ら、その位置を与えられるに足りるだけの度量を持ち合わせていたことこそがその鳥の不運だったのだ。傍らにあった頃も、また分たれてからも。
時代は流れる。
かつての『つばめ』が超特急として持て囃された時代であっても、その足音は確実に近付いていた。
己なりに大事にしてきた鳥は、とうとうレールの上を走ることすら叶わなくなった。その名の特急は不要だと、そう下された命に唇を噛んだその表情は明日の我が身だと、そう考えたと言ったら今の彼はどんな表情をするだろう。
そうしてレールの上から引き剥がされた鳥は、その翼にはあまりに不似合いな小さな部屋に押し込められて裏方として働くように命じられた。それは己にとってもその鳥が手を離れる事に等しくて、随分と憎まれ口を叩いたものだ。己の真意をあのどうしようもなく人の心に疎い鳥は知る事は無いだろう、だがそれでいい。
鉄道としては耐えがたいだろうその悪意にも取れる配置の裏には、他ならぬその鳥を夢と希望を以て弾丸列車建設の計画の一柱とするという思惑があったことを、本人は知らずとも己は知っていた。
知っていて絶望に嘆くことすら忘れて無表情のまま机に向かうだけの鳥には何も伝える事無く、ただ「おまえは其処にいればいい」とだけ囁き続けた時間の果て。すう、と色を無くした白い横顔が冷たく凝り、ただ漆黒の中にも僅かに蒼い双眸に点る炎を綺麗だと感じていた。
我ながら反吐が出るほど複雑怪奇な己の心を、あの鳥が理解する事は未来永劫無いだろう。
むしろその齟齬と断絶をこそ己が望み過ごした重苦しい年月の果て、やがて鳥は鳥の名を捨てて籠から羽ばたく。
東海道新幹線。
東京と大阪、この国の二大都市を繋ぐ超特急。敗戦の最後の痛みから脱却するための翼として、まったく新しい路線を走る。それこそが彼に向けられた期待と重圧であり、この「つばめ」の名を持つ存在には不可能だった事を成す新しい名前。
ああそうだ、それこそが既に鳥ではない彼に相応しい名前だ。
「……埒もない」
届けられた濃緑の制服を前にして、九州新幹線の名を得たかつての特急は眼鏡を押し上げた。深く沈む緑と鮮やかな金糸、襟の高さはかつて己に馴染んでいた特急の黒いそれに等しい。
鳥が籠の鳥で無くなったあの日から数十年。長い長い年月の果て、再び顔を合わせる彼はどんな表情で己を迎えるだろう。
己の特急としての終焉の地であるとはいえ、隠居して久しい己を呼び戻したJR九州への思い入れはほぼ無いに等しい。が、この名とこの地位に報いる為に意味があるというのなら存分に使うがいいと思う。
そして、再びあの鳥に手を伸ばそう。
今度は籠に囲うでなく、共に羽ばたくものとして。
それが新たな愛憎と断絶と苦しみの引き金になるとしても、このぬかるんだ泥のような過去の中で僅かな鮮やかな記憶の唯一だというのなら、それは決して「つばめ」の名を持つ己にとって間違いではないのだから。
再び黒の中にも僅かに蒼い眼が刃の如き強さで向けられる未来を思って、九州を名乗る男は薄らと口角を吊り上げた。
2009.01.30.
冬の新刊から続いているつばめ様萌えを吐き出すべく書いてみた。
思いっきり歪んだ漢前・九州への愛をこめて。
だがどう考えても東海道上官にとっては端迷惑です、さすがつばめ様!