エアーポケット
常に忙しなく己を急き立てる業務の合間に、けれども唐突にぽっかりと生まれてしまう空白がある。
それは、何か新しい事を始めるには短く、けれどもただぼんやりと持て余すには勿体なく。予想以上に早く仕上がった書類の山を前に東海道は僅かに眉を顰め、何かをあきらめたようにころりと手にしていた万年筆を机上へと転がした。
スケジュールは常に分刻み、今日の昼食だって押した業務に時間が取れず食いはぐれかけたところを、名古屋で偶然出くわした弟に無理矢理サンドイッチを詰め込まれた。味云々を考える余裕など当の昔に失って久しく、ただ栄養になればいいと思っている。多くの者から向けられる説教は耳には痛いが頭には入らず、常にあるのはただ『乗客を安全に、快適に、より早く目的地に届けること』ただひとつ。
この身の全てはその為に在り、その為だけに己が在る。
繰り返す日々は膨大な年月となって積み重なったとしても、きっとあの日の事を忘れられはしないだろうと東海道は思っている。
真新しい制服。陽光に輝く白い車体。
多くの歓喜の声に迎えられたあの日、確かにそれまでとは変わったのだ。
不要とされる絶望と、必要とされる歓喜。
思い出にするには鮮やかに過ぎる記憶こそが、東海道を東海道たらしめ、日本の交通大動脈としての自負とプライドを支えるのだと。他の誰が知らなくてもいい、東海道新幹線である己がよく知っている。
こうして、過ぎ去った過去を振り返る事はそう多くない。そもそもこうして時間が空いてしまうこと事態が稀で、こうした時に一人でいることは更に稀だからだ。
けれども今はその非常に稀な瞬間が訪れていて、夕方には新大阪に向かわねばならないが予定時刻まではまだ三十分近い余裕がある。こんな時に限って東京駅には自分一人しか居らず、沈黙は重苦しくない程度に部屋に満ちて感傷を誘う。
最初はひとりだった。時代の流れと共に同僚は増え、今はどうやってこうした沈黙をやり過ごしていたのかさえ思い出せなくなっている。
妙なものだ、とわずかに唇の端を綻ばせて転がしたままの万年筆へと手を伸ばしたのと。
「ありゃ、おまえだけかよ?」
がちゃり、とノックも無しにドアを開けた山陽の拍子抜けしたような声が響いたのは、ほぼ同時だった。
「……入室前にはノックをしろとあれほど言ったはずだが」
毎回毎回繰り返されるやりとりゆえ、東海道の方でももうさほど口うるさく言う気は失せている。形ばかりのこの注意も、すでに挨拶のようなものだ。それを理解しているのだろう山陽は生返事を返しながら、神経質なほどに整えられた東海道の机の端にわずかに腰掛ける。
これも何回叱責しても直らないこの男の悪癖で、深く溜息を落とした東海道は互いの姿勢と身長差の所為で首が痛くなるような高さにある山陽の顔を睨みつけた。
「おまえには私の言葉を聞く気が全くないようだな。いいか、その態度を即刻改める気がないなら、今度の報告書は一秒たりとも待ってやらんからそのつもりでいろよ」
「嘘ッ!ちょ、東海道ちゃん、それはひどくね?!」
慌てて机から降り、半歩退いた山陽の本気で慌てた顔に少しばかりの溜飲が下りる。そもそも、この男ときた日にはこちらが突発的な事故があることを想定して予備日を含めた提出期限に設定していることを熟知しており、此処までがアウト、と判断されるギリギリまで書類をため込む悪癖がある。やれば出来ないわけでもあるまいに、最初の頃は遠まわしないやがらせかと思い真剣に思い悩んだというバカバカしい過去もある。
結局、単純に『嫌いな事は後回し』というこの男の性格によるものだと判明してからは、思う存分罵ってこうして脅しの手段にできるくらいは諦めた。
この陽気でおちゃらけた男は、けれどもこちらが本気で嫌がることだけは絶対にしない。どこで見極めているのかわからないが、そこだけは信頼が置けたから、東海道は自分の言い方にも本気が足りなかったのだろうと日和気味だ。
「それで?ここには見ての通り私しか居ないが、誰かに何か用でもあったのか?」
今夜新大阪で予定されているJR西日本の会議とその後の親睦会には(どちらがメインだかわからないのは毎度の事だ。だいたい会社としての経営方針や運行業務に関する本気の会議ならば昼間にやるだろう)山陽も出席するはずだ。というか、この男の方がメインで自分はオブザーバーとしての参加なのだから、他の誰に用があったのだとしてもそろそろ出発しなければならない。
「いや、用っつーか……さっきコレ貰っちゃってさあ」
がさり、とかすかな音を立てて掲げて見せたのは某有名和菓子店の紙袋だった。紙袋の大きさと山陽の手つきから、それなりにかさばる何かが入っているのは間違いないだろう。
「ここなら持ってくれば片付くだろうと思ったんだけどなー」
「それは……」
この男にしては間が悪い、と言うべきなのだろうか。
東海道は高速鉄道たちの個々のスケジュールはある程度は把握しているが、本日東京に戻るのは上越一人、それも東海道や山陽が去った後だ。果たして紙袋の中身がなんであるのか知る由もないが、山陽の口ぶりではさほど日持ちのするものでもないのだろう。自然に眉根が八の字になる。
長い付き合いの間柄だ、互いの好みも知り尽くしている。山陽は甘いものは苦手ではないものの嗜む程度だし、東海道は嗜好はともかく量を食べられない。二人で消費する事は物理的・精神的・時間的余裕からも不可能の三文字で、思わず山陽の手にある紙袋を睨みつけてしまう。
では食べずに処分する、などという選択肢は倹約家として知られる東海道には存在しない。すべての食物は材料と生産者に感謝を込めて有り難く頂くものである。好き嫌いは宜しくない。否、あったとしても食物に罪はない、口にもせずに処分などと言語道断。
それでは、と思案に暮れる東海道の脳裏に浮かんだのは、本日昼下がりに兄の口に問答無用でサンドイッチを詰め込んでくれた実の弟の姿だった。
「……山陽、それは我々が消費しないと礼儀的に拙いものなのか」
「いや?顔馴染みに通りすがりに貰ったようなモンだから、そこまでは」
ポケットから携帯を取り出すと、堅苦しい外見に似合わない手早さでメールを打つ。その辺りでなんとなく状況を察したらしい山陽は、にへりと明らかに何かを企んだ顔で東海道の机からメモ帳を一枚失敬すると、先ほどペン立てに戻したばかりの万年筆で流暢に文字を書き綴った。
ペンを手にした山陽は、外見に似合わずペン習字のお手本のような綺麗な文字を紡ぐ。東海道自身のそれは几帳面で読みやすいがやや右上がりの癖があるから、少しだけこの男の書き綴る文字は羨ましいと思う。……そこに綴られた文面さえ考えなかったら、の話ではあるけれど。
ぼんやりと考えていた東海道の手の中で携帯が震えるのと、悪戯小僧のような笑みを浮かべた山陽が袋の中にそっと書き終わったメモを忍ばせるのとは、ほぼ同時のことだった。
「引き取り手が決まったぞ、山陽。そいつは東海道に任せることにした」
「ジュニアんとこで貰ってくれるって?よかったなあ、食わずに捨てられないで済むぞ、おまえ」
まるで語りかけるように紙袋を持ち上げて微笑む山陽に、東海道は何かを言いかけた口を噤む。
この男と二人で居ることなど、もう慣れたはずだった。これまでの長い長い時間を彼と共に過ごし、時には衝突を繰り返し築いた関係は強固とまでは言えなくてもここまで脆いものではなかったはずだ。
けれども、ふいに生まれる瞬間に切なさを覚える事がある。
自分よりも他のものに視線を向ける時。注意が逸らされる一瞬。噛み合わない視線。
ちりちりと胸の奥を焼くものの答えはあるようで無いようで、東海道は急に苦しくなった喉元を思わずさすって唇を引き締めた。
「……さっさと行くぞ、山陽。今夜は大阪だろう」
返事を待つ事無く、東海道は傍らに用意してあった書類ケースを手に足早に部屋を横断してドアノブに手をかける。背後からは山陽の慌てた声が聞こえたが、今は綺麗に覆い隠した何かが強張りかけた顔からこぼれないように、振り返る事無く先を急いだ。
在来線の待機室までそう遠くはないが、予定していた時刻に出発するにはあまり余裕があるわけでもない。靴の音も高らかに階段を下りる東海道は、必死で己の中身を立て直しを図る。
あの生真面目な弟とは、恐らく待機室にたどりつく前に会えるだろう。
伸ばした背筋が誰のためなのかなどと、愚問にもほどがある。高いプライドが何のためにあるかなどと、そんなことも考えるまでもない。それは『東海道新幹線』としては当然のことで、他の何も介在する余裕があるわけがない。
なのに、それがこんな瞬間には粉々になる。隣を走るこの男にこそ知られたくないと願うのに、些細なことで虚勢は剥がれおちて弱い素の己が顔を覗かせる。
到底許せるはずもないそれに、必死で蓋をする東海道に山陽が気づかなければいいと思い、また気づいてほしいとも願っている。矛盾もいいところだ。
ばたばたと背後から己を追う足音が、また正面からはこちらに向かう東海道によく似た靴音が響く。
外側の殻を取り繕うように、せめて兄の威厳を形作れるように。
「東海道!もちっと待てって……!」
「兄さん、俺に持っていって欲しいものって何だよ?」
前後から聞こえる声に薄く笑うと、東海道は山陽を弟の目の前へと押し出した。
結局、ホームへとたどり着き当初の予定の車両へと乗り込んだのは、発車一分前のことだった。
あれほど空白の時間を持て余していたというのに、結局は忙しない出立になってしまったあたりは、自分たちらしいというべきか。シートに深く背を預け、東海道は深く息を吐き出した。
「……誰かのおかげで、乗り遅れるところだったな」
「あ、何その遠回しに山陽さんのせいにしようとしてるセリフは。とーかいどーちゃんってば冷たいっ!」
相変わらず軽い、どこまで本気なのか分からない言葉。上辺だけを汲み取るならば激怒したっていい、茶化したその言葉の裏側を、けれども東海道はもう思い知っている。
溜息ひとつでそれを流して、背もたれへと頭まで預けてみる。いつもならば移動時間にも書類やモバイルは手放せないところだが、今日は片づけなければならない仕事は皆無に等しい。敢えて言うならばこれからの会議の資料の再確認をすべきなのだろうが。
「な、何……東海道?なにその微妙な視線は」
「……なんでもない」
当事者である山陽が、このユルさである。果たして己がそこまでしてやる義理はあるのだろうか。
どうにも胡乱なものになってしまう眼差しに戦いたのか、慌てて何やらポケットをごそごそしていた山陽の右手が、東海道の頭の上に何かを置いた。
「なんだ、これは」
己の手を伸ばして置かれたものを目の前にもってきてみれば、どうやらそれはどらやきらしい。パッケージに印字された店名はさきほどまで山陽が下げていた紙袋のものと同じだった。
「おまえ、これ」
「せっかくもらったんだから、おまえだって食いたいだろ?」
東海道この店のどらやき結構好きだろ、と告げた人好きのする笑みに、硬質さを保とうと努力していた頬に血が集まるのを感じた。自棄のように包装を剥いてかぶりついたその甘さは、今の気分とよく似ている。
この男は、自分に甘い。東海道自身が自覚するくらいなのだから、周囲から見たらきっともっと顕著に甘やかしているように映るのではなかろうか。
けれどそれが不快でない辺りで、この胸中にもやもやとわだかまり続ける何かの正体など、語るに落ちている。
むしゃむしゃと咀嚼と嚥下を繰り返した東海道の手の中に残ったのが包装紙だけになったのを見計らったようにそれを取り上げる仕草に、またわけのわからない感情がこみ上げてくる。
ちがう。わからないのではない。わかりたくない、の間違いだ。
この関係を、この距離を、この場所を壊すのが怖いだけだ。その先に待つものに、希望だけを持てるほどに東海道は楽天的にはなれそうもなかった。
「……寝る。着いたら起こせ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、ぎゅっと目を閉じる。あきらかに狸寝入りなのがばれているのか、苦笑して宥めるように前髪を払う山陽の指先が癪に障ったので、ことりと首を傾げて丁度良い位置にある肩へと頭を預けてやった。
「ちょっ……東海道っ、おい」
慌てて上擦った声が耳元で聞こえたが、そんなもの知ったことか。
いつだって行動を、思考を読まれて先回りをされるのはこちらなのだから、少しくらいはこの男の予想の外を動いてみてもいいだろうが。
心地よい温もりと、丁度良い高さのしっかりとした肩。わずかに香るコロンの爽やかな香りは、東海道は嫌いではなかった。狸寝入りのつもりがとろとろと思考を溶かしてゆく眠りの気配は現実で、抗いがたい、抗う必要のないそれに無言のままで東海道は身を任せた。
「……しょーがねーな、おまえだもんな」
仕方ない、という割にはどこか嬉しそうな声が現実なのか否かも判別がつけられないままに。
同じように傾いだ山陽の重みと温もりを暖かな気持ちで受け入れていた。
一方そのころ。
「これは……どこまで本気にすればいいのさ、東海道……」
在来線待機室に貰ったというこの紙袋を置いて、己は名古屋へと向かってしまったここには居ない同僚に、京浜東北は恨みがましい一言をぽつりと漏らした。
紙袋の中身そのものは問題ない。ふっくらとした美味しそうなクリームどらやきだ。箱が開封されていて数個減っているようだが、余所から回ってきた頂き物のおすそ分けだというのだから文句を言えた筋合いでもないだろう。
おかげで本日の茶菓子が一袋百九十八円のかりんとうから劇的にランクアップするのだから感謝すべきかも知れない。……中に余計な一言さえ添えられていなければ。
『こっちでは食べきれないので、みんなで食べるように! 山陽&東海道新幹線より愛をこめて
追伸:1コだけハズレが入ってるから気をつけろよ』
愛って何ですか、ハズレって何ですか、そもそもハズレって何なんですか何かヤバいものが入ってるんですか上官?!
この場に東海道(弟)がいたのならそんな疑問にも『山陽サンの単なる悪ふざけだよ。……なんも入ってねえよ絶対』と肩を落としながらも言ってくれたのだろうが、残念ながらそこまで高速鉄道事情に精通した人間がこの場に居る筈もなく。
既にどらやきをめぐって半狂乱な状況となっている現状に、ずれた眼鏡を直した京浜東北は深く深く溜息を落としたのだった。
2008.06.29.
大好きでたまらない某方様に愛をこめてはじめて書いた山陽×東海道。
いま思えば不審人物以外の何ものでもない(汗)、心の広いあの方に感謝!
二か月くらい経過するのでもういいかな、と思って再録してみた。